デジタル化がもたらしたドキュメンタリー作品への影響 人々を惹きつける記録映像の未来

時代精神としてのドキュメンタリー

 デジタル化によって記録映像が氾濫する時代を、批評家の渡邉大輔氏は「時代精神としての『ドキュメンタリー的感性』がある時代と呼んでいる。(※3)

 そんな時代精神の反映を映画作品の枠で語るなら、報道のプロや映像作家ではない非専門家の視点を導入した作品が増えてきたということが挙げられるだろう。

 それが大きな力を発揮するのは、例えば紛争や市民デモを扱った作品だ。シリア内戦を現地の人々が撮った映像で構成した『シリア・モナムール』(2014年)や圧政下のミャンマーを市民の映像を駆使して描き出す『ミャンマー・ダイアリーズ』(2022年)、香港デモ参加者たちの映像で作り上げた『理大囲城』(2022年)などは、紛争やデモの当事者の目線を直接体験させる。ロシアから軍事侵攻されているウクライナでも市民からの映像発信は大量にあるし、今般のパレスチナ・ガザ地区の虐殺からも同様の映像が多く出回っている。近いうちにそうした当事者の映像を駆使した作品が誕生するだろう。

 これらの作品は、誰もがカメラを持ち記録しようという意志がある「時代精神」が可能にした作品と言える。それを下支えしているのはデジタル化なのだ。

撮影行為が手軽になりすぎた代償

 しかし、誰もが事実を記録できる時代は必ずしも良いことばかりではない。変化には常に表と裏がある。

 文芸評論家の藤田直哉氏は、「震災ドキュメンタリーの猥雑さ」という論考で、2011年の東日本大震災時に最も早く反応したジャンルとしてドキュメンタリーを挙げ、その理由を「そこにあるものを撮影するだけで『作品』として成立してしまう『強度』があった」からと述べる。(※4)

 カメラを回すだけで作品としての強度を獲得できる「手軽さ」は、安易な衝撃映像を氾濫させたかもしれない。それはプロの映像作家たちだけに言えることではない。当時のSNSには日々、衝撃映像が溢れていた。それは真摯にこの悲劇を受け止めようという気持ちと、衝撃映像で注目されたい「承認欲求」と小銭を稼ぎたい欲望が、タイムラインでないまぜになっていた状態だった。

 デジタル化は撮影という行為を一部の専門家の特権的な行為ではなく一般化したが、その利便性は認識されても、撮影行為の暴力性はあまり意識されないままとなっている。SNSによって進行した「承認欲求」の社会化とドキュメンタリー的時代精神は、あまり良くない相性を発揮している面がある。撮影の倫理観はどこかで置き去りにされてしまっているのではないか。「私人逮捕系YouTuber」などは、その象徴的な存在だろう。

 そして、承認欲求の肥大化は、デジタル化のもう一つの側面、加工技術の発達によりフェイク画像を増加させてもいる。技術の進化によって見破りづらくなったのもあるが、世の中に溢れる映像の大半が記録であるという意識が広がれば広がるほど、フェイク動画に引っかかりやすくなる。

 デジタル化で記録行為は容易になったが、同時に映像の記録性に対する信頼も落ちている。記録しやすくなったのに信用は損なわれているという皮肉な状況となっているのだ。

オンラインゲームのドキュメンタリーが示唆するもの

 映像がもはや事実を担保できない時代、ドキュメンタリーはどこに向かうだろうか。

 それを考える上で、2023年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でユニークな事例が紹介された。インターナショナル・コンペティション部門で上映された『ニッツ・アイランド』(2023年)は、全編ゲーム映像で展開する異色の作品となっており、実在するオープンワールドのオンラインゲーム『DayZ』で交流する人々に、オンライン上で取材した映画作品だという。

ニッツ・アイランド / Knit’s Island --YIDFF 2023 International Competition | Trailer

 これは、言うなればデジタル世界で過ごす人々のドキュメントと言える。ゲーム世界を虚構と分断していては、今の現実を捉えそこなうかもしれない。筆者もまだこの作品を観ていないのだが、是非とも一般上映されてほしい。デジタルとドキュメンタリーの関係、そして、現代社会を考える上でも貴重な示唆を与えてくれそうだからだ。

 現実の輪郭があやふやになった今、映像がただちに事実である保証はない、そしてゲームのようなデジタル加工の世界がただちに虚構であるという保証もない。ドキュメンタリーを考えることは今の時代を考えることである。現実は今どこにあるのかを考えるためにも、私たちはドキュメンタリーについて考え続ける必要がある。

参考

※1. デジタル・ジレンマ2 https://www.nfaj.go.jp/fc/wp-content/uploads/sites/5/2016/04/DigitalDilemma2_JP_NFC.pdf
※2. YIDFF: インタビュー: 2003 https://www.yidff.jp/interviews/2003/03i001.html
※3. 『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔著、ゲンロン叢書(株式会社ゲンロン)、P83~P96
※4. 『21世紀を生きのびるためのドキュメンタリー映画カタログ』(キネマ旬報社)、「震災ドキュメンタリーの猥雑さについて」藤田直哉著、2016年、P87

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