『らんまん』が大河ではなく“朝ドラ”として描かれた理由 新たな近現代史を知る面白さも
「この先の世は、ますます身分らあのうなっていく。身分が消えた時、何が残ると思う? 己じゃ。自分が何者か、人はそれを探していく。学びはその、助けになる」
連続テレビ小説『らんまん』(NHK総合)第10話において、主人公・万太郎(小林優仁)の通う学問所「名教館」の学頭・池田蘭光(寺脇康文)が言った言葉である。第4週を終えた本作は、まさにその言葉通り、時代の大きな転換点において、万太郎(神木隆之介)たちがいかに「己」を見つけ、それを貫き通せるか否かを問う物語となっている。そして、彼らの物語は、彼らの生きる時代よりは遥かに自由で、縛られるものがないはずの現代を生きる私たち視聴者にこう問いかける。「さあ望みは? おまんは何がしたいがぜよ」と。
『らんまん』が面白い。高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルに、『流行感冒』(NHK BSプレミアム)、『旅屋おかえり』(NHK BSプレミアム)の長田育恵が脚本を手掛けた。高知県という、天才植物学者を生んだ自然豊かな土壌、多くの偉人を輩出し、自由民権運動が盛んになった場所を舞台に繰り広げられる物語は、それだけでエネルギーに満ちていて、日本の近代史を見つめる上でも新しい発見に満ちている。
幕末から明治、大正・昭和を生きた人物のドラマと言うとやはり渋沢栄一を主人公にした大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合)を思い出さずにはいられないが、同時代を描いていても、住んでいる場所、立場が違うだけでだいぶ見方が違ってくることがわかる。偶然の一致ではあるが、『青天を衝け』では「攘夷」を叫ぶ側(尾高惇忠役)を演じていた田辺誠一が、今度は植物学者・野田基善として「攘夷だなんだと騒いでいる時に、誰が植物に目を向ける」と万太郎に語り掛けることに、改めて一つの時代を一面的に語ることなどできないのだなと考えさせられたりもする。
つまり本作は、これまで多くの大河ドラマで描かれてきた「政治の中心にいる人々/関わろうとする人々」ではない側を描いている点が興味深い。でも、彼らが世の中の流れに無関係でいられるかというとそうではなくて、佐川の裕福な商家の一人息子である幼い万太郎はその時点ではさして大きな変化を自覚することもないのだけれど(名教館に通うことを許されるなど実際は強い影響下にあるが)、大人たちや武家の子たちなどは明らかに何かを感じ取っていたり、大きすぎる変化を強いられていたりする様子が見て取れることもリアリティがある。
初回は植物を探して自然の中を歩く万太郎の足から始まった。ワクワクと何かを求めて動く手、植物に対して語り掛ける声、そして、彼の目のクローズアップと共に、主題歌が鳴り響きオープニングの映像に繋がる。神木によって演じられる導入部分はそこで一旦幕を閉じ、森優理斗演じる幼少期の万太郎の物語に切り替わるが、そこでもまた、少年の目と、彼の足が無邪気にパタパタと揺れる様子から始まるのである。
ここから読み取れるのは、彼はタイトル同様、常に天真爛漫、何にも縛られない自由な存在であるということ。続いて、祖母タキ(松坂慶子)が、仏壇に向かって語り掛ける場面に切り替わる。この対比が興味深い。タキと仏壇のショットがその後何度も繰り返されることは、「本家と分家」と事あるごとに言う彼女の姿と共に印象的だ。松坂慶子が好演しているタキは、決して悪い人ではなく、大きな愛で家族を守りぬいてきた存在である一方で、「世の中がどう変わろうと変わらない」ことを信条とし、本家を絶やさず峰屋を盛り立て、次の世代に繋ぐことを「己の務め」として生きてきた人物である。だからこそ、急速に変わりゆく新しい時代を生きていく若者たちであるところの、万太郎と綾(佐久間由衣)の前に立ちはだかる壁となる存在であることが、説得力をもって描かれている。