『ホワイト・ノイズ』の難解な内容を解説 ノア・バームバック監督が示した“恐ろしい事実”
化学物質流出事故の現場から少しでも遠ざかろうとする人々の姿が象徴するように、多くの人間は、死の危険や不安から少しでも逃れようと努力している。しかし、いつまでも逃げ続けることはできず、いつか“死”にとらえられることとなる。その不安は、人が生きるなかで通奏低音のように絶えず存在し続けているのだ。80年代に書かれた原作小説のタイトルともなっている「ホワイト・ノイズ」というのは、ここではわれわれを取り巻く不安の言い換えだといえるだろう。
そのように考え始めると、さまざまな人間の営みや、あらゆる文化的な活動というのは、突きつめていけば、来るべき死を遅らせたり、絶えず存在している死への不安をはぐらかすための行動だと言うこともできる。流れ続けるノイズを意識しないために、刺激や享楽が必要になるのである。
本作の冒頭で描かれるのは、アメリカ映画のカーアクションシーンについての講義だ。車が崖から落下して大破したり、猛スピードで建物に突っ込んだり、派手に爆発炎上すると、観客は喜んでカタルシスを味わうと語られている。自分自身には絶対に起こってほしくない状況ではあるが、なぜかその場面に映画の観客たちは強く惹きつけられ、何度も映画館に足を運ぶのである。それは、実際の事故や事件現場に近づいて、しきりに様子を見たがるという心理にも近いのではないか。
それでは、なぜ人はそのような暴力的な死のイメージに引き寄せられてしまうのか。それは、ときおり死を意識せざるを得ないわれわれが、むしろそれにあえて接近したり、擬似的に体験してみたいという、怖いもの見たさのような暗い欲望の発露なのではないか。もしくは、険峻な岩山に挑むクライマーのように、死を垣間見ることで自身の生を噛み締めたいといった感情の反映なのかもしれない。どちらにせよ、その裏に“死”のイメージが関係していると、ドン・デリーロは考えたのではないか。そして、そんな心理の延長線上に、大衆・群衆心理やファシズムが存在するということなのだろう。
宗教や薬物に頼ることで、この不安を払拭できる可能性を、本作は一応描いてはいる。しかし、知識が備わった現代人であれば、神を心の底から信じきることは難しく、薬物の濫用は心身に深刻なダメージを与えてしまう。だから多くの大衆は、映画によって刺激を得たり、スーパーマーケットの商品棚に救いを求めているのではないか。それが現代のアメリカの姿だということを、デリーロの原作や本作は表現しているのだと考えられる。
原作が書かれた1980年代といえば、映画会社がファミリー向けの商業大作に注力したり、百貨店などが大衆向けの商品を開発し、マスメディアを利用したコマーシャルを氾濫させ、利益を十分に得るために商品を大量に生産するなど、マーケティング戦略が加速していた節操のない商業主義の象徴的な時代でもある。本作は、そこにさらに「フェイクニュース」の広がりを強調することで、より現代的な内容にしているといえる。企業による大衆のコントロールや、デマの慢延。それこそが、現代の宗教でありファシズムだということを、本作は示しているのである。
だが現実の世界では、ロシアのウクライナ侵略や、各国で差別的な思想が慢延してきていることが示すように、国家的な排外主義や覇権主義が再び台頭し、むしろ過去のファシズムそのものへと逆行している社会状況にある。第二次世界大戦の終決から40年ほど経過した80年代は、ファシズムに成り代わるものとして大企業の商業主義が槍玉に上がったわけだが、そのまた40年後の2020年代は、ナチスドイツのような本物のファシズムへと先祖返りしてしまったのだ。
この40年で、社会は進歩するどころか、直面する課題すら後退してしまった。『ホワイト・ノイズ』で描かれる、現代の商業主義をファシズムに例えた問題は、本物のファシズムの脅威のなかにある現代に生きるわれわれにとって、ある意味高度すぎるものになっているのである。そのことが、本作が照らし出した、ある意味で最も恐ろしい事実だったのではないだろうか。
■配信情報
Netflix映画『ホワイト・ノイズ』
Netflixにて独占配信中