『鎌倉殿の13人』源仲章とは何者なのか? 史実を超えた生田斗真の“怪演”と三谷幸喜脚本

『鎌倉殿の13人』源仲章とは何者なのか?

 第三代将軍・源実朝(柿澤勇人)の後継として、京より後鳥羽上皇(尾上松也)の親王が下向することが、ほぼ内定した。それと同時に、北条政子(小池栄子)には「従三位」を、実朝には頼朝を超える「左大将」の官位が与えられることになり、鎌倉の「権威」がこれまでにないほど高まることになったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合)第43回「資格と死角」。

 京からの知らせを受け、安堵の表情を浮かべると同時に「こうなると太郎(泰時/坂口健太郎)も何かの官職に推挙してやりたいが……」と言い出す実朝の傍らで、「菅原道真公と同じ讃岐守はいかがでしょう?」と、本気とも冗談ともつかぬことを満面の笑顔で進言する者がいる(讃岐守に任じられることによって、道真は京を離れることを余儀なくされ、悲嘆に暮れたという)。生田斗真が演じる「源仲章(みなもとのなかあきら)」だ。この男、ここへ来て、いよいよ絶好調なのである。

 自らが権威付けられたことを無邪気に喜ぶ実朝を横目に、鎌倉における朝廷の影響力が次第に高まっていくことを危惧する執権・北条義時(小栗旬)。その彼にわざわざ「北条殿~」と声を掛け、「頼仁親王様が鎌倉殿になられた暁には、この源仲章がいわば関白として支え政を進めていく」と、もはや隠すことなく自らの野心を表明し、さらには「朝廷と鎌倉を結ぶ役割に、私より適任の者がいれば教えてくれよう~」と猫なで声でささやきかけ、「執権殿は伊豆にでも帰られ、ゆっくり余生を過ごされよ」と義時に引退を促す仲章。極めつけは、「そうなったら、私が執権になろうかな~。ははははは!」の大爆笑である。もはや、言いたい放題というか、向かうところ敵なしの仲章なのである。

 後白河法皇の近臣であった河内守・源光遠の子として院近臣の家に育ち、自身も早くから後鳥羽上皇に仕えながら、なおかつ鎌倉の御家人(在京御家人)でもあるという稀有な立場にあった仲章(生年不詳)。「源」姓を名乗っているが「宇多源氏」の後裔と言われており、「清和源氏」の一流である「河内源氏」の後裔たる頼朝・実朝らとは、直接的な関係はない。実朝の将軍就任を受け、その「教育係」として京から鎌倉に下向した彼は、朝廷との交渉が可能な、鎌倉では貴重な人材(坂東武者は、有職故実どころか文字の読み書きすらおぼつかない者が多いので)として重宝され、気がつけば鎌倉の「政所別当」の地位まで上り詰めているのだった。

 思い返せば、その彼が初めて本作に登場したのは、第31回「諦めの悪い男」だった。第2代将軍・源頼家が倒れ、昏睡状態に陥った直後、修行中であった京の地で、阿野全成・実衣の息子、頼全が突如何者かによって襲撃・殺害される。その現場を指揮していたのが仲章だった。にもかかわらず、素知らぬ顔で鎌倉入りを果たし、北条家の人々ともにこやかに言葉を交わす彼が、次に大胆な行動に打って出たのは、第40回「罠と罠」のときだった。結果的に「鎌倉殿の13人」のひとりである和田義盛(横田栄司)が、その命を落とすことになる「和田合戦」の誘因となった「泉親衡の乱」。その首謀者である信濃の御家人「泉親衡」は、史実においても乱の直後に行方不明となるなど、謎の多い人物ではあるのだが……「その正体が、仲章だった!」という三谷幸喜ならではの大胆な発想に、大いに驚かされた歴史ファンも多かったのではないだろうか。自分はそのひとりである。なるほどそれも、さまざま形で鎌倉の崩壊・内部分裂を目論む後鳥羽上皇の「計画」のひとつだったすれば……確かに筋が通っている。そして見事に結果も出している。後鳥羽上皇の知略、恐るべし。そう、この『鎌倉殿の13人』において仲章に与えられた役割は、遥か遠い京の地より、実朝を懐柔しながら北条家を排除しようとする、後鳥羽上皇の「尖兵」であり「工作員」なのだ。

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