プロデューサー、小説家、映画監督 “何者”でもない川村元気が『百花』に込めたものは?

“何者”でもない川村元気が撮る『百花』

 気鋭の映画プロデューサーの長編初監督作品、劇場版『ドラえもん』の脚本家による監督作、原作者が自ら監督――。『百花』という映画に重ねられるであろう情報は、映画を観た後では、ノイズに思えてしまう。というのも、無名の新人監督だったとしたら、おそらく本作への評価はもっと熱を帯びたのではないか。『キネマ旬報』でも例外的にクロスレビュー欄から除外されており、批評家筋からの賛否も見えにくい。単純な絶賛、酷評に終わらないと思わせるだけに、〈川村元気〉という正体のはっきりした人物による得体のしれない映画という歪さが、そうした状況を生んでいるのではないか。

 彼がかつてプロデュースした映画の題名に引っ掛けて言うなら、この長編初監督作品は、“何者”でもない川村元気が撮ることで、不思議な光彩を放つ作品となった。

長回し撮影で持続される記憶

 映画は記憶によって伝承される。このテキストも、新宿の映画館で観てきた『百花』の記憶をもとに書かれている。しかし、無数のカットが集積されて2時間なりの映画になったものを、上映後、どの程度記憶しているかと言えば、かなり怪しい。

 どんなに繰り返し観て憶えているつもりの映画でも、再見すれば、決まって忘れていたカットが出てくる。もちろん、劇場以外で観れば、途中で止めることも巻き戻すこともできるが映画館で観た作品は、記憶に依存するしかない。そうして人の口や手を介して語られる段階で、微妙に形が変化していく。時には、ありもしない場面を誤って記憶していることもある。

 原作(文春文庫)に、こんな一節がある。

「映画の編集のように一年間をカットして繋げば、継ぎ目なく同じシーンとして見ることができる」『百花』

 息子の泉を残して、母の百合子が一年にわたって家を出ていたあと、不意に帰ってきたくだりに出てくる文章である。泉と百合子は〈編集〉を受け入れ、その一年をなかったことにして、以前と同じように暮らしていく。

 いかにも映画を本業とする作家らしい言い回しだが、自らの原作を映画化するにあたって川村元気監督は、〈編集〉という魔法のハサミを極力排除している。

 冒頭、奥にピアノが置かれた部屋を前に、カメラが緩やかに左方向へ振られた後、円環を描くようにやがて右方向へとパンする冒頭のシーンだけで観客の虚を突く演出が際立つが、それに続く夜も更けた同じ部屋に、泉(菅田将暉)が入ってくる場面も忘れがたい。百合子(原田美枝子)の姿はなく、彼は外に出て探し始める。そこまでが切れ目なく撮影されていることから、本作が1シーン、1カットを原則として撮られていることを観客は察することになるが、長回しが手段にはなっていない。実際、夜の自宅付近で母を探すシーンも階段を下るところで、さりげなくカットされて、公園のブランコで呆然と座る母を見つけるシーンへとつなげられており、長回しに固執するあまり、弛緩する時間が生まれることを回避する。

 こうした程よい長回しを駆使することで、百合子の時間や記憶が揺らぎ始めたことを、過度な映像表現に頼ることなく映し出す。スーパーで同じ行動が繰り返される姿を、長回しで撮影することで記憶の断絶を露呈してみせたのは、その好例だろう。

『青春の殺人者』と『百花』はつながっている?

 自宅でピアノ教室を営む百合子の影響なのか、泉は大手レコード会社に就職し、同僚の香織(長澤まさみ)と結ばれる。ここで彼らが業務で携わるアーティストKOEは、人工知能搭載のバーチャルヒューマンアーティストとして登場する。原作ではインターネット上に現れた生身の人間で、やがて泉と香織が彼女を担当することになる。

 父親がいないというKOEをめぐるエピソードは、小説では成立しても実写で描くのは難易度が高いと思えたが、映画では画面上にのみ棲息するCGで作られたキャラクターへと大胆な改変が施されている。AIによって記憶が作り上げられた無機質な存在は、記憶が薄れてゆく百合子と対照的な存在として、わずかな登場シーンながら異物感を残す。

 記憶がテーマとなる本作に、過去の原田美枝子の記憶が思い出されたのは筆者だけではないだろう。たとえば、『愛を乞うひと』(1998年)で原田は母子をひとりで演じ分けたたように、本作では40代と60代の百合子を演じ分けている。

 さらに言えば、18歳の原田が出演した『青春の殺人者』(1976年)で演じたケイ子の姿が、重なって見えてくる。別の映画が視界に現れるのはノイズでしかないはずだが、クライマックスの水上花火大会の場面は、『青春の殺人者』における祭りのシーンや、終盤の炎上シーンを想起させる。実際、暗闇を照らし出す強烈な明かりを人々が凝視する光景は、火事も花火も変わらない。

 『青春の殺人者』のラストで火に気を取られていた原田は、恋人の水谷豊の姿が見えないことに気づいて暗闇のなかで彼の名を呼び続ける。『百花』では、花火が終わった後で不意に原田の姿が見えなくなり、菅田将暉が母を呼びながら探すという同工異曲の場面がある。

 若き日の水谷豊と重なる部分もある菅田将暉がキャスティングされたのは、こうしたアダプテーションを実行するためだったのではないか――というのは筆者の妄想が過ぎるとしても、映画史的記憶を喚起する作品であることは確かである。

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