『ウエスト・サイド・ストーリー』で見つめ直すアメリカ 物語本来の人種構造とその対立

 スティーヴン・スピルバーグ監督の『ウエスト・サイド・ストーリー』は1961年のロバート・ワイズ監督作『ウエスト・サイド物語』のリメイクではなく、1957年に発表されたブロードウェイ版の“再映画化”という触れ込みだが、関係性を無視して語ることはできないだろう。不思議なことにロバート・ワイズ版よりクラシカルに見える時もあれば、まるで続編のように見える瞬間もある。ワイズ版が繁栄を極めたNYの俯瞰ショットから始まるのに対し、スピルバーグは再開発によって取り壊されたウエストサイドの廃墟から物語を始める。これまで以上にスピルバーグ映画の生命線を担うヤヌス・カミンスキーのくすんだカメラの下、ジェッツの登場だ。ポーランド系白人の彼らは我が物顔で練り歩き、得意げに指を鳴らしてプエルトリコ系移民の排斥をしているが、この荒廃した街でいったい何を守っているのか。スピルバーグ版の重要な変更点の1つは設定に忠実なキャストの人種構成だ。信じ難いことに1961年版はナタリー・ウッドら白人キャストが顔を黒く染め、プエルトリカンを演じていた。人種と言語の混在により、スピルバーグ版は物語本来の人種構造とその対立という、現代のアメリカに通じるテーマを獲得することに成功している。

 2021年に本作がリリースされる必然は『ミュンヘン』『リンカーン』でも組んできた脚本家トニー・クシュナーの起用からも明らかだ。アメリカ映画がイラク戦争への内省を深めた2005年にテロと報復の連鎖の無情を描いた『ミュンヘン』、アメリカの政治的分断と人種間闘争の苛烈を先駆けた『リンカーン』と、現在(いま)に立脚し、過去を振り返ってアメリカを描いてきたのがスピルバーグである。『ウエスト・サイド・ストーリー』のアンセル・エルゴート演じるトニーは1961年版のリチャード・ベイマーよりもずっと影があり、過去の暴力によって心に傷を抱えた少年として登場する。彼はこれまでのスピルバーグ映画の主人公と同様、共存を模索し、両組織の対立を防ごうと奔走する。1961年版では追い詰められた集団の危うさが滲む“Cool”が、ここでは決闘前に挿入されることでトニーの奮闘に読み換えられている。

 そしてスピルバーグ作品には珍しく、女性の物語である。新星レイチェル・ゼグラーが演じる乙女マリアはシャークスのリーダーである兄ベルナルドの支配から脱し、自ら華やかなリップを塗って未知なる出会いに飛び込み、運命の恋と信じるや進んで唇を合わせる。群舞を仰ぎ見るようなカメラはかつてブロードウェイで『ウエスト・サイド物語』に魅せられたスピルバーグの目線であるのと同時に、アメリカを見上げる小柄なマリアの目線でもある。

 ダイナミックな 「Mambo」のカメラワークはアクションの名手スピルバーグならではの躍動だ。ミュージカルがショウに終止せずストーリーを語る。これぞスピルバーグのナラティブだ。映画のスピードを司る俳優陣のフィジカルが素晴らしく、中でもアリアナ・デボーズ演じるアニータが映画のスピリットとなる。ベルナルドら男たちが故郷という過去に後ろ髪引かれるのに対し、アニータら女たちは新たなアメリカ人として陽気に「America」を謳う。1961年版ではジェッツとの決闘を容認し、ベルナルドのカノジョに過ぎなかったアニータが、ここではそんなことよりも熱い夜を過ごそうと胸を高鳴らせる。生命力あふれる肉体言語でアニータを現代的な女性として甦らせたデボーズは、アカデミー賞助演女優賞の最有力だ。

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