『妻、小学生になる。』は痛みを抱え続ける全ての人のための物語 最終回の奇跡を願って
「あまりに自分にとって都合のいい奇跡が起こったもので、もしこれを誰かに話してしまったら、シャボン玉みたいにフッと消えて、全部なかったことになってしまいそうで」と『妻、小学生になる。』(TBS系)第2話で、圭介(堤真一)は言った。最終回前編ともいえる第9話において、本編とテレビコマーシャルの間に挟み込まれる、夢とも現実とも願望ともつかない、圭介・貴恵(石田ゆり子)・麻衣(蒔田彩珠)の家族団らんの光景の中で、彼女たちはたくさんのシャボン玉を作っている。
「喫茶たいむ」という寺カフェの名前、大きい音で時を刻み続ける新島家の柱時計の音が「時間」の存在を主張する。また、やがて振り返られる「過去」となることだろう、アルバムに追加される写真、フィルムを模した枠組みに象られた、前述の家族団らんの光景。それらが全て、いつかこの幸せな時間に終わりがくることを告げていたにもかかわらず、万理華(毎田暖乃)の身体から貴恵がいなくなるという2度目の喪失を、家族たちも、視聴者も、簡単に受け入れることはできなかった。「あの子はいたんだよね。夢じゃないんだよね?」と言う万理華の台詞は、前述の台詞の対になっている。彼女の存在は、なかったことにはならない。これは、今この場所にはいないけれど、確かにいた、もしくは、姿かたちは見えないけれど確かにいる人たちに思いを馳せる物語である。
金曜ドラマ『妻、小学生になる。』がついに最終回を迎える。『週刊漫画TIMES』(芳文社)に連載中の村田椰融による同名漫画が原作であり、『あなたには帰る家がある』(TBS系)、『凪のお暇』(TBS系)、『おカネの切れ目が恋のはじまり』(TBS系)の大島里美が脚本を手掛けていることが興味深い。フィルムがかたどる幸せな夢、「まるで外から映画のシーンを見ているよう」な貴恵から見た万理華の記憶等、「映画」のイメージが頻繁に登場するのは『あなたには帰る家がある』を思い起こさせる。『凪のお暇』との共通項はパスカルズの音楽、坪井敏雄演出、武田真治演じる中禅寺ママの登場など、枚挙に暇がない。また、予期せぬ形で物語の中心にいる人物が終盤不在となってしまった『おカネの切れ目が恋のはじまり』最終話は、受け入れがたい突然の喪失に懸命に向き合おうとする登場人物たちと、私たち視聴者の気持ちを反映したものとなっていた。それはどこか、本作に繋がる部分がある。
『妻、小学生になる。』は、太陽のような妻、母、姉だった貴恵を突然失い、「ゾンビ」と化した家族の再生の物語であるとともに、千嘉(吉田羊)と万理華、礼子(由紀さおり)と貴恵という2組の母娘の葛藤を描いた物語だった。また、貴恵が「身体を間借りする」先の万理華の家で、母親である千嘉と、同世代の女性同士として共鳴しあう点や、万理華の身体から離れたにもかかわらず成仏できずに彷徨っている貴恵の視点から、死者側の心境が描かれている点など、単純な「入れ替わりもの」ではない広がりのある構造になっていたのも素晴らしかった。
そして何より本作は、第8話の守屋(森田望智)の言葉を借りれば「亡くなった恋人が生まれ変わって会いにくるなんて、素敵なファンタジー」が実際に起こるという奇跡を描いた作品であり、その後に彼女が言う「誰かを失ったことがある人なら誰もが思いますよね。もう一度会いたいって」という言葉が全てを代弁しているのではないか。
これは、東日本大震災から11年、そしてもう2年、コロナ禍の最中にいる私たち、つまりは、多くの喪失を経験し、その痛みを抱え続けている全ての人々の心情にも重なってくる物語であると。「皆が普通に話す。10年も経てば、普通に彼女のことを過去形で。僕にはそれができない、できるわけがない」と第1話の圭介は言う。