“群像劇”が少年少女のものとなった80年代 リヴァー・フェニックスから繋がる“縁”
日本劇場公開時のチラシには「“ジミーの再来” リバー・フェニックスにご注目を。」と、解説文で謳われている。今となっては、早逝した伝説のスターであるジェームズ・ディーンになぞられている点へ不吉なものを覚えるのだが、もともとリヴァー・フェニックスは子役としてキャリアをスタート。裏庭から宇宙への冒険が始まるというSF映画『エクスプロラーズ』(1985年)では、子役時代のイーサン・ホークとも共演している。
リヴァーは『スタンド・バイ・ミー』によって一躍人気スターとなったが、『グレムリン』(1984年)や『グーニーズ』(1985年)で既に注目されていたコリー・フェルドマン、『トイ・ソルジャー』(1991年)に出演するウィル・ウィートン、後年『ザ・エージェント』(1996年)でイケメンぶりを発揮することになるジェリー・オコンネルなど、『スタンド・バイ・ミー』にはブレイク前の俳優が多数出演していた。例えば、不良のリーダーを演じたキーファー・サザーランドや、亡くなった兄を演じたジョン・キューザックはその代表。また、不良のひとりを演じたケイシー・シーマツコは、『ヤングガン』(1988年)でもキーファー・サザーランドと共演。やはり、共演者同士による縁の数珠つなぎは、ここでも指摘できるのだ。
1980年代には、リヴァー・フェニックスの実弟であるリーフ・フェニックスも、SF映画『スペースキャンプ』(1986年)で、予期せぬアクシデントから宇宙への冒険を強いられる少年のひとりを演じていたという縁がある。この映画も、リー・トンプソンやケリー・プレストンなどの若手スターが共演する<群像劇>という側面を持っていた。さらに『ラスキーズ』(1987年)では、妹のサマー・フェニックスとリーフが共演。後にサマーは、ケイシー・アフレックと結婚しているが、彼には“ホアキン・フェニックス”と芸名を変えたリーフを被写体にした問題作、『容疑者、ホアキン・フェニックス』(2010年)を監督することになるという相関関係まである。
1993年、ジョニー・デップが経営するナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」でリヴァー・フェニックスが倒れた時、救急要請の電話をかけたのは、弟のホアキン・フェニックスだった。兄の死後、ホアキンが公共の場でリヴァーについて積極的に語ることは無かったが、僕はどこかで「ホアキンは兄の足跡を背負おうとしているのではないか?」と、裏付けも、確信もないまま感じ続けてきた。そして、時が流れた2020年。第92回アカデミー賞授賞式で、ホアキン・フェニックスが『ジョーカー』(2019年)の演技によって主演男優賞に輝いた折のことだ。彼は「愛を持ち、救済に走れば、平和が追いかけてくる」と、亡き兄の言葉を引用して受賞スピーチを締めた。その言葉によって初めて、「ホアキンが兄の果たせなかった映画人生を、自分なりに抱えながら歩もうとしているのだ」と、確信できたのだ。私たちが、今なお1980年代の映画に魅了される理由。それは、作品という点を点で結んだ幾重もの“線”が、やがて“縁”となり、いつの間にか私たちの人生と並走しているからなのである。まるで自分自身が、<群像劇>の登場人物のひとりを、人生という名の舞台の上で演じているかのように。
思い返せば『スタンド・バイ・ミー』は、リヴァー・フェニックスが演じたクリスの訃報を知った大人のゴーディが、少年時代を回想するという物語だった。奇しくもリヴァー・フェニックスは早逝したため、もうこの世にはいない。僕は『スタンド・バイ・ミー』を観るたび、否応なく自身の少年時代を思い出す。それは、映画の中の少年たちの姿と、僕の少年時代とを重ねてしまうからだ。同様に、映画の中でクリスがいなくなってしまったことと、現実にリヴァーがこの世にいないこととも重ねてしまうのである。映画の中でリヴァー・フェニックスの姿を見るたび、私たちは其々の抱く“ノスタルジー”にひたり続けている。だから、彼のことを忘れない限り、“リヴァー・フェニックス”なる存在は、其々の思い出の中で今も生き続けているのである。
参考資料
『広辞苑 第七版』岩波書店
『現代映画用語事典』キネマ旬報社
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