『恋せぬふたり』で考えさせられた“恋”の概念 岸井ゆきの×高橋一生が世界観に引き込む
“ああ、好きなタイプのドラマが始まったな”と、唇をモゴモゴしてしまう初回放送だった。よるドラ『恋せぬふたり』(NHK総合)のことだ。
「好きなタイプ」と思ったのは、ドラマの“第一印象”とも言えるキャストが魅力的というのもある。岸井ゆきの×高橋一生のW主演。岸井の演じるフレッシュでまっすぐなキャラクターはドラマで描かれる世界に視聴者をグイッと引き込んでくれる力がある。対して、高橋は多くの人が見過ごしてしまいそうなところにもピリッと引っかかっていく人を演じたら天才的だ。そのふたりが主演を務めるとなれば、このドラマの顔つきからかなり好みだった。
そして、ドラマの“自己紹介”にあたる概要部分にも興味がわいた。そこに書かれていたのは“他者に恋愛感情も性的欲求も抱かない「アロマンティック・アセクシャル」の男女による「ラブではないコメディ」”。※1 男と女が出会えば、いつしか恋愛感情が生まれ、「ドキッ」「キュン」なラブストーリーになっていくはず……と恋愛が前提となるドラマは描かれないと高らかに宣言されている。では、何を描いていくのだろうか。「もっと詳しく知りたい」「そこから共に何かを感じたい」そう思わずにはいられなくなった。
……と、あえてこのドラマに惹きつけられた理由を、恋のはじまりっぽく綴ってみたのは、このドラマを観て少々心がざわめいたからだ。これまで筆者自身が自認してきた「恋」が、自分自身の本能的な部分からくるものなのか、あるいはこれまで観てきた様々な作品や一般常識と呼ばれるものから「こういうのが恋愛」とただ倣ってきただけなのか、グニャリと揺らいだ気がしたのだ。
自分の中でなんとなく形作ってきた「恋」という言葉の概念を、もう一度考え直してみたくなる。そして、同じようにこの作品を観て感じたいろんな人のそれを聞いてみたくなる。そんな心をざわつかせ、日々が楽しくなるものに出会えた喜びこそ、個人的には「恋」と名付けたくなったからかもしれない。
異性に対する感情の高ぶりだけを「恋」と呼ぶには、少々もったいない言葉のように思うのだ。きっと人の数だけ「恋」があっていいはず。あっていい、とは、なくてもいいということでもある。泣いたことがない人に、泣く意味を諭すのが困難なように。生理現象にも近い名もなき感情の高ぶりに、たまたま「恋」と名付けた人がいたのだろうと思っている。そして、それに似た経験を持った人が「私のそれも“恋”と呼べそうだ」と共感し、広がっていったのではないだろうか。