『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を3つの視点から考察 ボンドの運命にみる神話の終焉
『007』シリーズの最新作にして、ダニエル・クレイグが演じるジェームズ・ボンド映画の最終作となった『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』。コロナ禍の影響で、数度にわたって公開時期が延びてしまったが、封切られるやいなや、さすがといえる根強い人気と、コロナ禍による緊急事態宣言が解除されたタイミングが重なり、全国の映画館が活況に沸いている。
この、映画史上稀に見る長寿シリーズは、長く続いているがゆえに、各人によって作品ごとの評価や好みが多岐にわたっているため、批評するのは難しいところがある。ここでは、あえてそんな本作を、『007』シリーズ全体や、クレイグのシリーズ、そして映画作品単体としての評価という三つの視点から、真の価値を論じていきたい。
そもそも、ダニエル・クレイグによるジェームズ・ボンドのシリーズは、それ自体が全体の作品群の中における挑戦的な位置付けのものだった。『007/ゴールデンアイ』(1995年)でパワフルな娯楽的表現を次々に投入して、全体のシリーズに新風を吹かせたマーティン・キャンベル監督が、再び違う方向からテイストを刷新したのが『007/カジノ・ロワイヤル』(2006年)であったのだ。
そのコンセプトは「『007』のリブート」といえるもので、新しく“007”のコードネームを手にしたばかりのボンドが、必死に泥臭い戦闘を繰り広げたり、本気で女性に惚れ抜いて窮地に陥るなど、歴代のボンド映画からすれば華麗さに欠ける姿を意図的に描くことで、「ビルドゥングス・ロマン(成長譚)」としての面白さを加え、このシリーズに新鮮味を与えることになったのだ。
その主演に、親しみやすい甘いマスクの俳優ではなく、まるで厳しい軍人のような、苦みばしった硬質的な見た目のダニエル・クレイグを選択したのも非常にユニークだった。選ばれた当時は多方面からブーイングの嵐が吹き荒れたものの、その姿は政府の殺し屋としての説得力と、男性的特徴に溢れている。そして、険しい表情のなかに見える淡いブルーの瞳が、彼を主人公足らしめていたと感じられるのだ。
原作小説の面白さを蘇らせ、ある部分で原点回帰したともいえる『007/カジノ・ロワイヤル』の魅力は、大筋において2作目の『007/慰めの報酬』(2008年)が、そのまま引き継ぐことになった。一部では評価が低い一作だが、スピーディーで感覚的な撮影に優れたマーク・フォースター監督によるモダンなアクションシーンは、クレイグのシリーズの中では圧倒的だといえるし、多国籍企業が水の利権を奪うことで国家を支配してしまう問題を描いた、社会問題を貫く現代的な内容も評価できる一作だった。
その後、監督がサム・メンデスに変更されたことで、シリーズはまた急激に路線を変更することになる。『007/スカイフォール』(2012年)では、成長を描いてきたはずのシリーズは、突如として“老兵”となったボンドの物語にシフトしたのだ。『007/スペクター』(2015年)を観るとよく分かるように、メンデス監督はクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008年)を意識し、暗く耽美的な映像美を駆使しながら、ジェームズ・ボンドのイメージを“象徴性”を帯びたものに作り変えている。
『ダークナイト』におけるバットマンの暴走が、同時多発テロ以降のアメリカのイメージを投影していたように、『007/スカイフォール』もまた、イギリスという“老いた戦艦”と老兵ボンドを重ね合わせる。そして、珍しく国内が主な舞台としてドラマが展開することで、古い歴史の記憶が刻み込まれたスコットランドの大地を起点として、ボンドに投影された国家イギリスは、下降から上昇へと転じていく。その意味において、『007/スカイフォール』のイギリス本国での大ヒットは、政治的に後ろ向きな状態にあったイギリスの国民感情に寄り添ったものであったことを示しているように思えるのだ。
『007/スペクター』のラストシーンで描かれたのは、ボンドの結婚を予感させる、マドレーヌ(レア・セドゥ)とのドライブシーンである。一見すると、ついにボンドが伴侶を見つけたというハッピーエンドに映るが、往年のボンド映画『女王陛下の007』(1969年)を鑑賞したことがある観客であれば、この後に“ある惨劇”が起こることを予感せざるを得ない。ボンドが運転するアストンマーティンDB5が、マドレーヌを助手席に乗せたまま雨あられのような銃撃を浴び続ける、本作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、まさにその予感を現実にした不吉なシーンであるといえよう。
このように、ダニエル・クレイグによってボンドが演じられてきた、これまでのシリーズ4作は、ストーリーが連続する一つの流れにありながらも、政治性や表現手法が大きく二分されているところが特徴なのだ。そして最終作は、直近のサム・メンデス監督の方向性が継続するのかと思いきや、それらを含めたシリーズ全作をフォローしたものとなっていた。それは、メンデス作品の閉鎖的なイメージを部分的に引き継ぎながらも、最初の二作品同様のグローバルで開かれたイメージが混在しているところから感じることができる。
キャリー・ジョージ・フクナガ監督の過去作『闇の列車、光の旅』(2009年)や、『ビースト・オブ・ノー・ネーション』(2015年)などにも見られる、グローバルな感覚から社会問題を描く姿勢は、そのように、最初の二作品に一部回帰するという意味では適任だったといえよう。そうなると、本作の大きなコンセプトの一つは、“シリーズ全体の調和”だったということになる。最初の二作品をも評価している観客にとっては、この試みは嬉しいものだ。しかし、そんな役割を請け負った、シリーズ初挑戦のフクナガ監督にとって、本作は少々窮屈といえる仕事だったのかもしれない。
このように、「リブート作品」として始まったものが、いつの間にかシリーズ全体を象徴するような性質のものに変わってしまったところを、さらに本作がまとめ役を買って出てくれたことで、一つの流れとして認知し得るものになった。これで初めて、クレイグのボンドシリーズを一つのかたまりとして、落ち着いて観られるようになったということでは、本作の存在には意義深さを感じるところだ。では、本作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を、歴代のシリーズの中の作品として、そして単体の映画として評価するとどうなのだろうか。