『花束みたいな恋をした』麦と絹の恋はなぜ盛り上がりを見せたのか 2人が示した恋の形跡
まだ“何者にもなれるかもしれない”抗いの中で
振り返ってみれば、価値観の違いはいくつも露見していた。最初に意気投合した居酒屋でも、麦が別の卓に行ったところを面白く思わなかった絹は「友だちが泊めてくれる」とウソをついてその場を去ろうとした。そのシーンだけ見ても、どちらかと言えば流されやすい麦と、本音を隠してその場を取り繕ってしまう絹という図があった。
では、なぜそんなに2人の恋は盛り上がりを見せたのか。その大きな理由は、絹と麦の若さにあるのではないか。子供の頃、将来の夢を聞かれて「普通の大人」なんて答えたら「夢がない」とでも言われそうなものなのに、就職の時期が近づいてくると急に「夢を追わずに現実を見ろ」なんて言われてしまうのが、日本の社会だ。
世間が言うようにちゃん就職をして、普通の幸せを目指す大きな流れのようなものに、自分も順応していかなければならないのだろうか。好きなことをして、イヤなことを避けて、自分なりの幸せを追い求めることはできないのだろうか。絹と麦は、そんなモヤモヤを抱えていた時期に出会った。
彼らがサブカルチャーに陶酔していたのも、この世界にはそんな大きな流れに染まらずとも生きている人たちがいるという救いになっていたからかもしれない。自分の人生は、どちらに向くのかという不安定な時期に出会ったからこそ、お互いが一緒に抗ってくれる同志のような存在に映ったのではないか。
この人となら、子供のままではいられない、でも大人にもまだなりきれない、この何者かになれそうな予感を残したままの「現状維持」をずっと続けていけるのではないか、と。
もちろん、そんなわけにはいかないということを、絹はとっくにわかっていた。よく読んでいたブログ「恋愛生存率」にあった、「始まりは終わりの始まり」というテーマ。パーティーは始まったらいつか終わるし、人は生まれたらいつか死ぬし、子供はやがて大人になるし、誰かと出会ったらいつか別れがくる。
だから、きっと彼女は死してもなおこの世に形を残すミイラに惹かれてしまうし、筆者が亡くなっても残り続ける文章を噛みしめる。麦のことを好きになったのもイラストという作品を残す人だったところも大きかったかもしれない。絹は何かを残す何者かを愛することで、自分がこの世にいた形跡が残るのを感じたかったようにも見える。
だが、麦はペンを置いてしまう。絹との生活を維持するためにはお金が必要で、お金を稼ぐためには好きなことよりもやるべきことに追われるのは当たり前で……いつの間にか麦は、かつて抗っていたはずの大きな流れの中にいた。
2人の歩む道が変わってしまったのを象徴するように、もう玄関には白いスニーカーは並ばない。それでも麦の中は、そこには叶えたい生活があるのだと、絹との「現状維持」を目指す暮らしを続けているつもりだったはずだ。でも絹にとっては、同じ空間で同じご飯を食べてさえいれば「現状維持」というわけではなかった。
絹としては、始まったからにはいつか終わりを迎えてしまう今を、ただ消費するような毎日にはしてほしくなかった。でも、麦は気づくことができない。なぜなら、彼は時空を超えて存在するミイラよりも、人々の今の生活を支えるガスタンクにロマンを感じる人なのだから。
自分を確立させるために必要だった恋もある
出会いの時期よりも、2人はお互いを同志だとは思えなくなっていた。それは、気づかないうちに大人になってしまっていたから。麦は抗う思考を忘れることで目の前の生活を受け入れ、絹はより好きなものを仕事にしていく知恵をつけていく。どちらも間違ってはいないけれど、今や共通の「好き」がなくなってしまった2人にとって、その現実との向き合い方の違いを理解できなければ、一緒にいることは難しい。
この映画のハイライトとなるのは、別れのシーンだ。友人の結婚式に、2人は別れを決意する。楽しくて幸せな日だから、今日笑って別れよう。2人の終わりが、また1人と1人の始まりになるように。
それでも2人で1つになろうとした部分が剥がすのには、やっぱり痛みが伴う。ファミレスで見かけた若いカップルに、かつての自分たちを照らし合わせて涙するシーンは、そのままこの作品を観ている観客が抱くそれと共鳴し、劇場でも鼻をすする音が聞こえてきた。
でも、別れたからといって一緒に暮らしていた2人はすぐに「さよなら」というわけにもいかないのがリアルなところ。ハンバーグを食べながら「実は別れた2人」とナレーションが添えられるのは、始まりのころのパンケーキと対照的。仲のいい2人に見えても、もう1人と1人になっているということなのだ。
どうも別れた後の2人のほうが、それぞれを個人として尊重できているように思えるのは、同じ坂元裕二脚本のドラマ『最高の離婚』(フジテレビ系)でも描かれていた部分だ。そもそもアカの他人同士では「言わなくても察してよ」「言ってくれなきゃわかんないよ」とはならない。どこかわかり合って当然だと考えるから、そうした言い争いが生まれるのだと思うと、恋人や家族の繋がりというのはなんとも矛盾に満ちている。
この矛盾を丁寧に描いた作品が、こうして多くの人の心を打つのは、いわゆる恋愛や結婚が始まったからと言って、幸せが続くわけではないことを誰もが気づいているからかもしれない。始まりの先に必ずある終わりに向けて、どう過ごすのか。諦めることにしても、抗い続けることも、どちらの戦い方も美しかった。そう称え合いながら、次の終わりの始まりへ向かう絹と麦は、たとえ別れたとしても戦友であることに変わりはない。
お互いに違うパートナーといる2人は、あの頃のように相手を一心同体だと思い込んでいるようには見えなかった。若いときの自分たちだからできた恋がある。自分の幸せとは何か、その輪郭がハッキリ見えてくる恋をするタイミングがあるのだ。あの恋も、あの涙もあったからこそ、今の自分がいると思える、大切な時間が。
そして運が良ければ、偶然Googleストリートビューに映った写真のように、残り続けるブログ記事のように、あるいはミイラの傍らに添えられた王墓の花束のように残り続けることもある。その形跡が示す「ここに恋があった」という事実そのものが、ときに人を幸せにする。
この映画がそうであるように。切り花のように色あせてしまった恋たちも、終わったまま消えたのではなく、次のあなたの始まりの糧になっている。まるで全ての恋を肯定し、「よく頑張ったね」と花束をもらったようなラブストーリーなのだ。
■公開情報
『花束みたいな恋をした』(c)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
全国公開中
出演:菅田将暉、有村架純、清原果耶、細田佳央太、韓英恵、中崎敏、小久保寿人、瀧内公美、森優作、古川琴音、篠原悠伸、八木アリサ、押井守、Awesome City Club、PORIN、佐藤寛太、岡部たかし、オダギリジョー、戸田恵子、岩松了、小林薫
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
製作プロダクション:フィルムメイカーズ、リトルモア
配給:東京テアトル、リトルモア
製作:『花束みたいな恋をした』製作委員会
(c)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
公式サイト:hana-koi.jp