『花束みたいな恋をした』麦と絹の恋はなぜ盛り上がりを見せたのか 2人が示した恋の形跡
これはきっと、私たちの物語――。とは、映画『花束みたいな恋をした』のチラシに綴られたコピーの一文だ。この文言の通り、本作を観た多くの人が自身の恋を思い出したのではないだろうか。
恋に落ちたときのこと。恋が終わったときのこと。「ああああ」と叫びたくなる衝動に駆られた人もいれば、「なんであのとき……」と過去を省みた人もいただろうし、「きっとこれからは!」と前を向く気持ちになった人もいたはずだ。
本来、恋とは1人ひとり異なり、唯一無二のものであるはずなのに。なぜ、こんなにも風景や心情が重なってしまうのか。それは、恋愛をすると否が応でも向き合うことになる、私たちの「自己認識」の物語だからかもしれない。
「同じことを考えている人に出会えた」という幻想
絹(有村架純)と麦(菅田将暉)の恋のきっかけは、好きな本、映画、音楽、お笑い……といった「趣味の一致」だった。映画の半券をシオリ代わりに本に挟むところも、ジャンケンのルールに違和感を持つところも、「それも?」「え、これも?」と、共通点がどんどん見つかる。足元に目を向ければ、同じコンバースの白いスニーカー。まるで2人の歩みさえ、同じかのように感じられる演出だ。
それは、“かつて人間は2人で1つだった”と語られるアンドロギュノスの神話のように、探し求めていた片割れを見つけ、完全体になったような気持ちになる、そんな恋だった。「こんなに価値観の合う人に出会うなんて」。楽しいことは2倍になって、幸せは2乗になっていく。
パンケーキを食べながら「実はシタ後の2人」という心の声に、傍から見れば人が2人いる風景だが、絹と麦としてはもう“独りと独り”ではないという充足感がにじむ。しかし「趣味が一致する=価値観が同じ」と勘違いしたくなってしまうが、同じ遺伝子を持ち同じ家庭環境で育った一卵性双生児でさえ個性があるように、私たち人間は魂を100%一致させることなんてできない。
長く一緒にいれば「自分と同じ」よりも「自分と違う」を楽しめるかが大事だったりするのだが、絹と麦はその違いの部分はそっと隠してしまう。本当はミイラ展に興奮する絹に麦は引いていたし、麦が作ったガスタンクの自作映画の途中で絹は寝落ちしてしまった。お互い表面上では興味のある振りをしながら。
2人で1つのものについて語り合っているけれど、それはイヤホンのLとRから別の音が聞こえているように、それぞれ違うことを話しているかもしれないのだ。恋仲になっても2人で1つになったわけではなく、1人と1人という境界線は同じ。他人同士だということを、平常時には冷静に受け止められるこの事実が、どうも恋愛時になると見失いがちだ。