「新しい日常、新しい画面」第3回

『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失

時代精神としてのメランコリーと『ヒプマイ』的画面

 岩内自身は、この連載でも取り上げたグレアム・ハーマンらのポストヒューマニティーズの哲学(彼自身はこれを「現代実在論」という名で括り直しているが)を、こうした現代のぼくたちからは失われた「神の「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)」を「回復する運動として――または高さと広さとは別様に生きる可能性として――読み解くことができる」(前傾書、17頁)と解釈している。

 岩内の議論については、またあとでもあらためて触れる予定だが、ともあれ、ぼくもまたこの岩内の整理はかなり的確だと思っている。

 たとえば、ここでいうメランコリーの感覚は、これも近年注目を集める、ハーマン・メルヴィルの短編小説『バートルビー』(「しないでいるほうがいいのですが…(I would prefer not to)」)や、岩内も著作のなかで言及するルーマニアの思想家エミール・シオランのペシミズムにも通底しているだろう(シオランもまた、「倦怠」を強調する)。

 そして何より、勤務先の大学で20歳前後の学生と日々接しているぼく自身の個人的な実感としても、ポストモダン=ニヒリズムのリアリティは、ぼくの属するいわゆる「ロスジェネ世代(以前)」、そしてポスト・ポストモダン=メランコリーのリアリティは、その下のいわゆる「ゆとり/さとり世代」の持つ特徴にほぼ正確に対応しているように感じられる。若い世代のあいだに広がる「推す」カルチャー(感受性)、ある種の「距離」を失った感覚は、ここに帰着させることができるのではないか。ただ注意したいのは、こうしたビリー・アイリッシュ的な21世紀特有のメランコリーは、単に若い世代に特有のものではなく、おそらくは時代精神として、本質的にこの時代を生きるぼくたちすべてを覆っているということだ。いま、ぼくたち一人ひとりがぼんやりと感じているバートルビー的な「倦怠」や「疲労」、「生きがたさ」。それらの正体は、この「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない……」というメランコリーなのである。

 そして、「推し」を観るためにファンが熱中するアニメ『ヒプマイ』の書き割り的なフラットな「画面」は、そのメランコリーを、じつに「明るく」、のっぺりとイメージ化しているのだ。

『羅小黒戦記』のポストコロナ的フラットさ

『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』(c)Beijing HMCH Anime Co.,Ltd

 そういえば、現在、話題になっている中国のアニメーション映画『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)ぼくが選ぶ未来』(2019年)が描き出す世界も、ここで述べてきた図式と重なっている。最後にちょっとだけ述べておきたい。

 もとより、主人公の黒猫に変化する少年の妖精・小黒(声:花澤香菜)をはじめとする森に住む妖精たちが、人間の自然破壊により棲家を追われ、図らずも彼ら妖精というノンヒューマン・エージェンシーと人間が接触し、互いに競合することになるという本作の世界観は、いうまでもなく連載の第1回でも論じた現在の新型コロナウイルスとぼくたちとの関わりを寓意的に表しているかに見えてしまう。

『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』(c)Beijing HMCH Anime Co.,Ltd

 そのなかで、当初、居場所を失った小黒を自分たちの仲間に加え、優しく面倒を見ながら、じつは密かに妖精たちの居場所を壊した人間たちに復讐を企む妖精・風息(声:櫻井孝宏)は、植物を操る超常的な力を駆使して、かつての神聖な森をふたたび復活させようとする。物語のクライマックスで、小黒と、人間でありながら妖精との共生を目指す執行人・無限(声:宮野真守)と対決した風息は敗れることになるが、このときのかつてあった「高さ」(超越性)の復活を目指しながらも挫折する風息と、もはやそうした「高さ」を目指さず、ヒトとヒトならざるモノたちとのフラットな共生を志向する無限/小黒の姿は、それぞれどこかポストモダン的なニヒリストと現代的なメランコリストと重なって見えるのだ。 

『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』(c)Beijing HMCH Anime Co.,Ltd

 あるいは、このアニメーションは『ヒプマイ』とはまた違った意味で、多分に「フラットさ」を含んでもいる。本作は、もともとこの後日譚となる物語が2011年から発表されているが、それはFlashを用いたウェブアニメだった。また、すでに多くの指摘があるように、『羅小黒戦記』は中国製のアニメーションでありながら、その物語や表現、ギャグのセンスにいたるまで、『DRAGON BALL』(1984年〜1995年)など、現代日本のマンガ・アニメの影響を強く受けている。つまり、『羅小黒戦記』においては、人間/妖精という物語世界の対と重ねられるように、ウェブ/映画館、日本/海外といった境界=距離もフラットに均されているのだ。

 第2回でも名前を出した土居伸彰がすでに卓抜に指摘しているように(『21世紀のアニメーションがわかる本』)、こうしたかつて存在したさまざまな区別や境界がファジーに失われている点は、21世紀以降の現代アニメーションの示す大きな特徴のひとつだが、それは他方で、この連載が注目している「画面」の変容とも関わっているだろう。『羅小黒戦記』の「画面」は、中国の作品ではあるが、日本の『ヒプマイ』の「画面」とも意外に近いところで共振しているはずである。

 さて、以上までで、さしあたりコロナ禍=「新しい日常」の映像文化が見せている「新しい画面」について概観してきた。次回からは、この「新しい画面」たち――それらはひとまずフラットで明るい画面だ――が、どのような歴史を背負って現れてきたのか、その変遷を考えてみたいと思う。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■放送情報
『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』
TOKYO MXほか、毎週金曜日24:00〜放送中
声の出演:木村昴、石谷春貴、天﨑滉平、浅沼晋太郎、駒田航、神尾晋一郎、白井悠介、斉藤壮馬、野津山幸宏、速水奨、木島隆一、伊東健人、小林ゆう、たかはし智秋ほか
原作・音楽制作:EVIL LINE RECORDS
監督:小野勝巳
シリーズ構成:吉田伸
キャラクターデザイン:芝美奈子
総作画監督:芝美奈子、落合瞳、竹内由香里
サブキャラクターデザイン:川口千里、新谷真昼
プロップデザイン:江間一隆
美術監督:岡本綾乃
色彩設計:ホカリカナコ
撮影監督:宮脇洋平
CG監督:野間裕介
編集:西村英一
音楽:R・O・N
音響監督:本山 哲
音響制作:HALF・H・P STUDIO
制作:A-1 Pictures

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