赤楚衛二×町田啓太『チェリまほ』はなぜ熱狂を生んだ? 3つの愛されポイントを紐解く
『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(通称:チェリまほ)(テレビ東京系)が今、熱狂を生みつつある。
原作は豊田悠による同名コミック。タイトル通り30歳まで童貞だったために「ふれた人の心が読める」魔法が使えるようになった主人公・安達(赤楚衛二)と、彼に想いを寄せる同期のエリート営業マン・黒沢(町田啓太)による“好意ダダ漏れ”ラブコメディだ。
『チェリまほ』が1週間の癒しというファンも多く、深夜帯ながらTwitterで毎回トレンド入りの大健闘。公式アカウントには海外ユーザーからもコメントがつくなど、その人気は世界に広がっている。
なぜこれほど多くの人が安達と黒沢の恋に胸の高鳴りと安らぎを覚えるのか。その背景には、単なる甘いラブコメディだけじゃない魅力が隠されている。『チェリまほ』に込められた3つの愛されポイントを紐解いてみたい。
安達の成長を通じて描く「俺なんか」からの脱却
1つめが、『チェリまほ』が「俺なんか」から脱却するための成長物語であること。主人公の安達は自己評価が低く、「俺なんか」が口癖。黒沢が自分に好意を寄せていると知っても「そもそもなんで俺なんかを?」と疑い、黒沢がマフラーを貸そうとしても「黒沢が風邪ひいたらみんな困るんだし。俺なんか別に」とつい自虐めいた言葉を口にしてしまう劣等感の塊のようなキャラクターだ。
そんな安達がどう自分を受容し肯定していくかが、『チェリまほ』の大きなストーリーの柱。そのきっかけとして、黒沢がいるという構図だ。黒沢は誰よりも安達のことをよく見ている。安達の頼りなさを嘆く先輩・浦部(鈴之助)に対し、「安達はどんな仕事でも丁寧にやり遂げます」と認め、「俺なんか別に」と自分を蔑む安達に優しくマフラーを巻いてくれる。
自分のことを見てくれている人がいる。大切にしてくれる人がいる。その事実が、擦り切れた安達の自尊心の回復薬となる。大きな前進となったのは、先週放送の第4話。完璧すぎる黒沢に引け目を感じ、「俺にできることないよな」と落ち込んでいた安達が、黒沢もまたいろんな悩みを抱えながら「何もしないよりは、できることはしたい」と勇気を振り絞っていることを知り、窮地に陥った黒沢の力になろうと「自分にできること」を求めて踏み出す姿が描かれていた。
ほんの小さな一歩かもしれない。だけど、確かに前に進む安達の頑張りと黒沢の健気な愛が、同じように自分に自信が持てず、自虐に走ってばかりの視聴者の背中をいたわるように撫でてくれる。だから、『チェリまほ』を観ていると、なんだかうれしい気持ちになる。誰かを慈しみたい気持ちになるのだ。
心がふれ合うことで見える「ラベリング」からの脱却
2つめが、『チェリまほ』が「ラベリング」から脱却するための相互理解の物語であること。人と向き合うことを恐れる安達は、自分自身に「モテない陰キャ」とラベリングすることで、自らを狭い枠の中に押し込めていた。同様に、黒沢に対して「モテオブモテ」とラベリングし、「同期であることと性別以外は共通点ゼロ」と勝手に自分とは違う種類の人間だと決めつけていた。
けれど、相手のことを知っていけば知っていくほど、そんな単純なものじゃないとわかってくる。黒沢も、同じ漫画にハマッていること。好きな相手の前では、余裕を失ってしまうこと。「記号」ではなく、ひとりの人間として相手を見ることから、相互理解は始まるのだと、『チェリまほ』は提示している。
その例のひとつが、後輩の六角(草川拓弥)だ。ノリのいい六角を安達は「ウェイ」とラベリングし、苦手としていた。けれど、六角の心にふれることで、彼が場を盛り上げるためにお調子者を演じているだけで、根は良識的な気遣い屋なのだと知り、親しみを覚えていく。
昨今のニュースを見ていても、部分的な情報だけでその人の全部を断じてしまうことは多い。実生活でも直感的な印象だけで勝手にグルーピングをしてしまうことなんてしょっちゅうだ。分断と偏見が取り沙汰される今この時代だからこそ、外見じゃなくてちゃんと相手の内面を見つめようという『チェリまほ』のメッセージはシンプルだけど、胸に刺さる。