蒼井優が体現する“ギャップ”と闘う人間像 『スパイの妻』で発揮された、そのクラシカルな佇まい

蒼井優が体現する、“ギャップ”と闘う人間像

エーテルの行方

 『贖罪』(黒沢清監督/2012年)の第1話『フランス人形』で、蒼井優は初めて黒沢清の作品に出演する。黒沢清の映画における蒼井優は、完全に引き算の演技を披露する。それが監督の指示というわけでもなく、おそらく黒沢作品に出演するという意識そのものが、演技の抑制を自然な形で導いている。抑制と向き合うことで、蒼井優の演技は、これまで以上に鋭利な切れ味を研ぎ澄ましていく。“少女の体のまま、大人になってしまった”麻子(蒼井優)は、夫(森山未來)との常軌を逸した新婚生活について、「こう見えても幸せだから」と、本心を隠す。『百万円と苦虫女』で見せた、あの「困ったように笑う」笑顔で。本心と表情が一致しないことで生まれる演技の余白。むしろこの蒼井優こそが、本来の女優としての気質に合っているのではないかと思わせるほど、その余白は深く物語の肌理に浸透していく。また、毎晩フランス人形の衣装を着て、夫の寝室に立たされる麻子に当たる照明の冷たい光は、一人の女性の徹底的に冷え切った肖像を浮かび上がらせる。

 黒沢映画における蒼井優はいつもと違い、動線に繋がれた美しさとでも言うべきか、自己抑制の中で際立っていく演技の美しさなのだ。このことはクローズアップのショットを迎えたときに、より一層際立っていく。ポン・ジュノがオムニバス映画『TOKYO!』(2008年)の一編『シェイキング東京』を蒼井優と撮ったとき、『メルド』で同オムニバスに参加したレオス・カラックスが、蒼井優の顔のフレームへの収まり方を称賛していたように、蒼井優のクローズアップは、たとえば『汚れた血』(レオス・カラックス監督/1986年)のジュリエット・ビノシュのクローズアップがそうであったように、感情の向き方がどこに向かっているのか簡単には読み解けないものになっている。また、ニュアンスの広がりに富んでいる上に、蒼井優のフレームへの収まり方は、日本映画の古典に出てきそうなクラシックな女優の雰囲気を備えている。そのことに意識的な黒沢清は、『岸辺の旅』(2015年)に続き、最新作『スパイの妻』(2020年)で、蒼井優の持つ最大の資質をクローズアップとして全開に開放する。劇中にスクリーンで上映される小作品の聡子(蒼井優)のクローズアップの美しさに小さなどよめきが起こるのは当然のことだ。さらにその切り返しとしての聡子のクローズアップの豊かさに至っては、尋常ではない深度と広がりを持っている。これこそが蒼井優がデビュー作『リリイ・シュシュのすべて』で語った、“明るいとか明るくない”のない、悲しいとか楽しいもない、スクリーンに投影された、あまりに唯物的な女優の肖像であり、エーテルの現在地なのだ。

■宮代大嗣(maplecat-eve)
映画批評。ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、キネマ旬報、松本俊夫特集パンフレットに論評を寄稿。Twitterブログ

■公開情報
『スパイの妻<劇場版>』
新宿ピカデリーほかにて公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp

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