吉沢亮の光を失った瞳に胸を締め付けられる 『青くて痛くて脆い』が突きつける他者との向き合い方

『青くて痛くて脆い』のヒリヒリした後味

 原作者・住野よるの出世作『君の膵臓をたべたい』(以下、キミスイ)と『青くて痛くて脆い』は毛色の異なる作品だが、テーマは共通している。キミスイの主人公・春樹も楓と同じように他者を必要としない。彼らは人との関わりの中で輝きを放つヒロイン――それぞれ桜良、秋好と出会うことで、青春切符を手に入れるところまで似ている。そして、ふたりとも大切な存在を違った形で失うが、喪失を経て辿り着く道が楓と春樹で正反対なのだ。

 春樹は桜良という存在を通して、誰かと生きる尊さを知る。対する楓は、秋好と出会ったことで人と向き合った気になっているが、実は最後まで自分のことにしか興味がない。安全圏から、意識高い系の人間=他人を平気で傷つけると穿った見方をしているだけ。予告でも流れる「何がみんなのためだよ、全部自分のためだろ」という楓の台詞は、自分が心地良く生きられる表面的な優しい世界を押し付け、暴走し、最終的にたくさんの人を傷つける彼自身にブーメランとなって返ってくる。

「好きなのに嫌い、楽しいのにうっとおしい。そういうまどろっこしさが、人との関わりが、私が生きてるって証明だと思う」(『君の膵臓をたべたい』)

 キミスイでそう語った桜良の言葉が、本作を通してより心に響く。今はSNSを介していつでも誰かと繋がれる時代になったが、相手の顔や本音が見えない分私たちは人の痛みに少しだけ鈍感になった。身勝手な正義を振りかざし、相手を中傷する楓の姿はSNSに溢れる悪意の声にも重なる。桜良や秋好のように傷つき傷つけられる覚悟を持ち、リアルな場で他者と向き合う存在を対照的に描くことで、住野よる原作の映画は現代の風潮にも警鐘を鳴らしているのではないだろうか。

 映画の終盤、楓が“なりたかった自分”が歩むはずだったキャンパスライフを空想する『ラ・ラ・ランド』(2016年)のラストシーンを彷彿とさせる場面がある。そこに映し出されるのは、周りと溶け込み、時に失恋や仲間との衝突で傷つきながらも青春を謳歌する楓や秋好の姿。後悔に満ちた楓の青春時代に胸がぎゅっと締め付けられるが、ラストは微かな希望を感じさせてくれた。他者との繋がりがSNS中心になっているコロナ禍の今、『青くて痛くて脆い』はヒリヒリとした後味をもって、私たちの麻痺した感覚を取り戻してくれる作品となっている。

■苫とり子
フリーライター/1995年、岡山県出身。中学・高校と芸能事務所で演劇・歌のレッスンを受けていた。現在はエンタメ全般のコラムやイベントのレポートやインタビュー記事を執筆している。Twitter

■公開情報
『青くて痛くて脆い』
全国公開中
出演:吉沢亮、杉咲花、岡山天音、松本穂香、清水尋也、森七菜、茅島みずき、光石研、柄本佑
監督:狩山俊輔
脚本:杉原憲明
原作:住野よる『青くて痛くて脆い』(KADOKAWA)
制作プロダクション:ツインズジャパン
配給:東宝
製作幹事:日本テレビ放送網
(c)2020「青くて痛くて脆い」製作委員会
公式サイト:http://aokuteitakutemoroi-movie.jp/

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