『コクリコ坂から』をジブリの歴史から読む 随所に込められた東映動画のメタファーの数々

他の宮崎アニメや作中の演出との呼応

 なるほど、誰もが指摘しているように、映画の中のカルチェラタンのイメージは、宮崎がさまざまな作品で描いてきた「廃墟」や「城」のイメージをすぐに思い出させる。のこされ島(『未来少年コナン』)、カリオストロ城(『ルパン三世 カリオストロの城』)、ラピュタ城(『天空の城ラピュタ』)、ハウルの城(『ハウルの動く城』)……。それらはどれも、かつてはおおいに栄えていたが、いまは誰からも顧みられなくなった過去の遺物だ。『コクリコ坂から』のカルチェラタンもそうした宮崎的な廃墟のイメージを引いている。また、そこで交わされる激しい討論会(学生運動)のイメージも、『なつぞら』でも描かれたような、60年代の東映動画の社内に濃密にあった組合運動の雰囲気を伝えている(対して、女性ばかりが協力しながら生活するコクリコ荘のコミュニティやカルチェラタンを清掃する女子生徒たちの集団も、数々の宮崎アニメに共通するイメージだ)。

 また、このアニメでは、なんとも魅力的な「縦」方向の運動や構図がいたるところに登場する。メルが高々と揚げるコクリコ荘の庭の旗はもちろん、カルチェラタンの屋根から校庭の池に飛び降りる俊のジャンプ、俊とメルが自転車で一気に駆け下りるコクリコ荘前の坂道、そしてカルチェラタンの大掃除でロープで上下に行き交うさまざまな物。こうした『コクリコ坂から』を彩る「縦方向」のイメージは、直接的には、作中で描かれるメルと俊の両親をめぐる親子=血の秘密の主題と結びついていると言える。そしてもちろんそれは、宮崎駿と吾朗という「親子」の物語とも無関係ではない(ここでは深く触れないが、「帰ってこない船乗りの父」を描く吾朗監督の『コクリコ坂から』は、先行する駿監督の『崖の上のポニョ』[2008年]とも対応している)。しかし、それは合わせて、さらに日本アニメそのものの伝統=歴史という大きな「縦」の運動=歴史とも重なるものだろう。

『コクリコ坂から』が現代に呼び覚ます意味

 さて、そんな隠されたメッセージを含んだ『コクリコ坂から』が2011年に公開されたという事実も、偶然のことながら、とても意味深いものがある。なぜなら、それは宮崎駿がいったように、テレビアニメやオリンピックなど(まさに、現実にもう一度開催が決まった東京オリンピックは延期になったわけだが!)の激変が起きた60年代と同じように、この作品が公開された2010年代もまた、いろいろな意味で大きな時代の節目だったと言えるからだ。映画公開の年の3月に発生した東日本大震災と福島原発事故は、文字通りそれまでの日本社会の伝統や常識を「液状化」し、足場をなくしてしまった。そして、『風立ちぬ』のあと、まさに震災の記憶を呼び覚ましつつ、また「ポスト宮崎」的な国民的大ヒット作となった『君の名は。』(2016年)の新海誠が登場したが、それはいってみればキャラクターを「記憶喪失」にして、唯一の歴史や伝統や災害の記憶を「チャラ」にするような物語の語り手だった。

 駿と吾朗父子の生み出した『コクリコ坂から』は、そうした「ポストジブリ」や「ポスト宮崎」、ひいては「ポスト戦後日本」の姿がはっきりと台頭し始めた2011年という年に、それを前もって牽制し、豊かな「アニメーションの過去と未来」の復権を爽やかに描き上げた作品だったのだ。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■放送情報
『コクリコ坂から』
日本テレビ系にて、8月21日(金)21:00〜22:54放送
※本編ノーカット放送
企画・脚本:宮崎駿
監督:宮崎吾朗
原作:高橋千鶴、佐山哲郎
声の出演:長澤まさみ、岡田准一、竹下景子、石田ゆり子、風吹ジュン、内藤剛志、風間俊介、大森南朋、香川照之
(c)2011 高橋千鶴・佐山哲郎・Studio Ghibli・NDHDMT

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