宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

【三度目の「光と闇の綾」の賞揚】

 繰り返すと「Jホラー」は“「場所」に関わる「居住者の」脅え”として1963年に始まる。小4で見た『怪奇大作戦』(1968年)シリーズのDVDボックスに依頼の十倍の長大な解説を寄せたが、そのために一本一本精査して分かったのは、「ニセモノ/ホンモノ」モチーフがほぼ全回を貫徹することだ。特に実相寺昭雄監督「京都2部作」(23~24回)に顕著だ。

 思えば、このモチーフは戦間期に始まる江戸川乱歩「少年探偵団」シリーズ(怪人二十面相シリーズ)を貫く。社会が急に変化する時に「ニセモノ/ホンモノ」モチーフが噴出するという大衆表現の定理がある。「ちゃんと見ない」からニセモノに騙される。「ちゃんと見ない」というモチーフと「ニセモノに騙される」というモチーフが結びついている。

 社会が急に近代化する時、人は強くなりゆく「光」に目を奪われ、そのハレーションで「闇」を見なくなる。このモチーフの嚆矢が、戦間期の川端康成『浅草紅團』と江戸川乱歩『押繪と旅する男』だった。後者は川島透監督が映画化したが、『CURE』直前の1994年である事実に注目しよう。映画の中身は乱歩の短編を解説するような見事な内容だった。

 その解説を言語化すると、戦間期の川端と乱歩の作品は「銀座批判」だった。後藤新平の帝都復興計画の「光」に満ちた銀座はモボとモガが闊歩する、しかしフラットな時空だが、凌雲閣と直下の私娼窟が同居する浅草は「光」と「闇」が綾をなす時空。「光」は人の居場所はないニセモノだが、「光と闇の綾」の中には人の居場所があるホンモノだーー。

 だから、再び社会が急速に再近代化した1960年代に「ちゃんと見ない=ニセモノに騙される」モチーフがリプライズした。それは「戦後批判」を意味した。それを当時新左翼に連なっていた佐々木守や石堂淑朗らが担った。その意味で新左翼≒新右翼(戦後の親米ケツ舐め右翼に対し、戦前の反欧米右翼を引き継ぐ真右翼をこう呼ぶ)という定理が如実だ。

 そこは深入りしないが、彼ら監督や脚本家らが、戦間期の川端や乱歩が銀座を体験したが如く、高度成長期の高速道やビルやデパートを体験していた事実には注目してほしい。その体験が「光と闇の綾」を描く「JホラーVer.1」の楳図かずおや古賀新一や怪奇大作戦シリーズを生み出した。即ち1970年までは「闇への開かれ」が日本にちゃんと在ったのだ。

 直前の1950年代末から水木しげるが、鬼太郎の誕生秘話を描く『妖奇伝』『墓場鬼太郎』を描いた。先住民たる幽霊族がタライや壁と話し、「よく見る」と道には妖怪がいる。それがホンモノの日本だというのが水木の主張だ。そして在野哲学者の内山節によれば、その頃までの日本人は狐に化かされたが、1960年代を通じて化かされなくなっていった。

 加えて北一輝など戦前右翼研究家の松本健一によれば、世論調査で日本人が「アジア(後進国)の一員」から「西側(先進国)の一員」という意識に変わったのが1964年、つまり東京五輪の年(松本は「一九六四年革命」と呼ぶ)。「場所で忘れられた人や動物に復讐される」という「JホラーVer.1」の元年1963年に重なる事実に注目しなければならない。

 大正の戦間期前期に生まれ、上海のフランス租界で母とその兄弟たちを産んだ僕の祖母は、まだ日本にいた女学生時代には人力車で女学校に通うハイカラさんだったにも拘らず(祖母の父は浅草に映画館と芝居小屋を5つ所有するカブキ者)、時々「通い慣れた道なのに、迷っちゃったよ、キツネに化かされたんだ」と言っていたのを、僕はよく覚えている。

 そして再度のリプライズ(再興の再興)が1990年代半ばに生じ、「JホラーVer.2」の形を採った。それが「鏡をちゃんと見ろ」という「存在論的モチーフ」として表れた。同じ頃「レトロ・フューチャー」(1960年代の「光=未来」を懷かしむ営み)もブーム化した。なぜ90年代半ばなのか。2000年前後を舞台とする『呪いの家』が参照する事件がヒントだ。

 1995年は援交のピーク。阪神淡路大震災とオウムのサリン事件が連続した。1997年には酒鬼薔薇聖斗事件。1996年は『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに象徴されるアダルトチルドレンと自傷系のブームの起点。ストーカー騒動とセクハラ騒動の元年でもある。1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、ウヨ豚が湧き始める。そう。狂いが顕在化した。

 問いの答えは、80年代来の「新住民化=第2次郊外化=汎システム化」の結果、社会がフラットな「光」に包まれた裏面で、「社会の闇」が「心の闇」へと移転したことだ。それが思春期を過ごした子どもが大人になるまでのタイムラグを挟んで、90年代の「狂いの顕在化」に繋がった。それを最大限に象徴したのが97年の東電OL事件だったと考えられる。

 「JホラーVer.2」の出発点は「人類学ルネサンス」ないし「二度目の存在論的転回」に時期が重なる。グローバル化とテック化による「汎システム化=フラットな社会への閉じ込め」(格差化にも拘らずそれを感じないジョック・ヤングの「過剰包摂社会」がそれを象徴する)よって、闇の「社会から心へ」の移行と共に「社会の外」への強い志向が生じた。

 その「心の闇」は、酒鬼薔薇聖斗のような犯罪者としてのみならず、性愛における「コントロール系のクズ男」や「被害妄想の糞フェミ女」という神経症として表れたことが重大だ。なぜなら、それが、クズ化=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」化の一般化という現象を代表するからである。これらのクズの特徴は不倫炎上するところにある。

 クズは、「見ている時」に相手が自分に従っていたら=コントロールできていたら安心する。だが思い出すべきだ。「鏡」や「避雷針」や「空き家」は「見ていない時」にも存在する。同じくその男やその女は「見ていない時」にも存在する。「見ていない時」に鏡が何を映すか未規定なように、「見ていない時」に相手が何をしているのかも未規定なのだ。

 「LINE見せろ」「写メ見せろ」と強いつつ「ウチの妻は・夫は、不倫してません」とホザく。見える範囲に情報をたぐり寄せて安心する。自動機械のクズである。80年代に「寝取りのプロ」だった僕に言わせて貰えば、旦那に悟られないで奥さんを寝取るのは実に簡単。「そうしたことがあるかも知れない」と思いつつ幸せな毎日を送るのが、健全だ。

 それを「開かれ/閉ざされ」の二項図式を用いて言えば「絶えず『開かれた』状態でありつつ、腹を括って『閉ざされた』こちら側にいる」状態が倫理的に望ましい。「安心・便利・快適」厨の反対側の構えだ。奇しくも『呪いの家』で仙道敦子演じる霊感のある女が示す構えがそれだ。「開かれ」を忘れれば復讐され、「閉ざされ」を忘れれば社会を生きられない。

 黒沢作品を含め「JホラーVer.2」が示唆するかかる倫理は、多様な現れを示すものの普遍的だ。それを象徴するのがショーン・ペン監督『イントゥ・ザ・ワイルド』(2008年)で、映画関連素材で言えばピエール・マイヨール(かつての無呼吸潜水記録者ジャック・マイヨールの兄)が著した『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』(2017年)だ。(ちなみに同作品から厳しいジャック批判を消去したのがレフトリス・ハリートス監督『ドルフィン・マン』<2017年>)。

 「鏡の向こうに何かがいる(Ver.1)」「自分が知らないものを鏡が知る(Ver.2)」との予感を抱きつつ「鏡のこちら側」に留まる構えが、汎システム化によって狂人化しないための処方箋になる。それを「なりきり becoming=往相」と「なりすまし pretending=還相」の遣い分けだとパラフレーズしてきた。「霊感のある女」が示す構えとはそのことだ。

【理論を実践へと実装する営みへ】

 巷間、ウヨ豚や不倫炎上厨の如き脊髄反射的でエコーチェンバー的な「見たいものだけを見る」クズの量産をインターネットのせいにする短絡が蔓延っている。これはウヨ豚が全てを中国人のせいにし、糞フェミが全てを男のせいにするのと同じ自己のホメオスタシスhomeostasis of the selfのための外部帰属化だ。真実を「ちゃんと見る」必要がある。

 インターネット元年である1995年の10年以上前から、世界各所で、汎システム化による共同身体性・共通感覚・言語的共通前提の崩壊が、「感情の劣化=言外・法外・損得外への閉ざされ」を招いていた(1985年からのナンパとフィールドワークで全国を回った僕は日本での過程を具さに目撃した)。それがなければネット化は異なる帰結をもたらしたろう。

 全ての事象には文脈がある。全てのテクストにはコンテクスト(テクスト随伴物)がある。それを無視して全てをテックのせいにする自動機械は、人間的なものを目指すつもりで必ずテックを敵視しよう。だがテック化を含めた技術の複雑化は必然的な過程で、それに敵対するのは絶望への道だ。テック化を「大切な何か」の味方につける方途が必要だ。

 コロナ禍は必然的にテック化を後押しする。本来20年かかる過程が数年に短縮される。目下の文脈では、そのことが「共同身体性・共通感覚・言語的共通前提」の崩壊による顕著な分断を加速しよう。だがテック化を別の文脈で機能させ得る。その別の文脈はコロナ禍の現実を「見ている」だけでは分からない。「見えないもの」を「見る」必要がある。

 別言すると「共同身体性・共通感覚・言語的共通前提」の崩壊によるクズ化=「言葉の自動機械化・法の奴隷化・損得マシーン化」とそれによる倫理の脱落を嘆くだけでは始まらない。コロナ禍によるテック化の加速が幸い「茹でガエル化抜きで」問題を露わにさせる。そこで生じるカオスが、フラット化から一部の人を解放してくれている事実もある。これは重大だ。

 理論的には、「共同身体性・共通感覚・言語的共通前提」の崩壊を加速するテックと、逆にそれを押し留め、かつリストアするようなテックを区別し、後者に与するのが重要だ。もともと日本には倫理がなく、日本的共同体のキョロメ作法が倫理の代替物を提供してくれていたところに、共同体の空洞化が生じてアノミーが生じている以上、なおさら急務である。

 この日本的文脈が、どのみち各国で生じるだろう劣化を「先取り」させる。その意味で日本はいつも「課題先進国」だ。だが、先の理論的な示唆だけでは過剰に抽象的だ。理論を実践へと実装するには、文脈に伴われて初めて現象する日本的文脈の否定面のみならず、別の文脈に伴われることでリストア可能な肯定面に着目し、手掛かりにする他はない。

 実際、半世紀余り前には、日本人の多くが「見えないもの」を「ちゃんと見る」営みを弁え、ユダヤ・キリスト教的な文明化を遂げた人々とは違って「人間中心主義」を生きていなかった。「人間主義の非人間性/脱人間主義の人間性」図式に即して言えば、キャリコットがそう感じたように、日本の歴史には「脱人間主義の人間性」のヒントが満ちている。

■宮台真司
社会学者。映画批評家。東京都立大学教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■配信情報
Netflixオリジナルシリーズ『呪怨:呪いの家』
Netflixにて、全世界独占配信中
監督:三宅唱
出演:荒川良々、黒島結菜、里々佳、長村航希、井之脇海、柄本時生、仙道敦子、倉科カナ
脚本:高橋洋、一瀬隆重
エグゼクティブ・プロデューサー:山口敏功(NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)、坂本和隆(ネットフリックス)
プロデューサー:一瀬隆重、平田樹彦
音楽:蓜島邦明
作品ページ:www.netflix.com/ju-on_origins

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