『聲の形』はアニメ史のターニングポイントだった 京都アニメーションが成し遂げた実写的表現
ただ他方で、このことは今年1月のリアルサウンド映画部の杉本穂高氏、藤津亮太氏との鼎談記事(細田守と新海誠は、“国民的作家”として対照的な方向へ 2010年代のアニメ映画を振り返る評論家座談会【前編】)でも話題になり、またすでに多くのレビューで指摘があることだが、『映画 聲の形』は、『たまこラブストーリー』や本作に続く『リズと青い鳥』(2018年)といった山田作品がそうであるように、きわめて「実写映画的」なエフェクトや演出が随所に凝らされている点に大きな特徴がある。ちなみに私は、先ほどの鼎談で以下のように語っていた。
2015年〜2016年に自分の中でアニメの見方が一気に変わった感覚がありました。そもそも映像は、非常に身体的なメディアです。つまり、映像作品には物語映画のリズム、ドキュメンタリーのリズム、アニメのリズム……というように、異なる複数のリズムがあり、映像の快楽というのはそのリズムに身体を同期させることだと思います。それ以前からも、もちろんアニメも見ていましたが、僕はどちらかというと実写映画のリズムが気持ち良い体質だったのですが、『聲の形』や『この世界の片隅に』で、映画とアニメのリズムがどこか連動し始めたという実感がありました。
この実感は、私のなかでいまもなお確かなものとしてある。例えば、その感覚をはっきりとしたものにする大きな要素が、これも公開当時に連載していたレビュー(『ゲンロンβ』第7号所収)で記したことだが、新海作品にも近い、数々の、いわば「擬似レンズ的」な表現とPOV(主観)ショットの多用である。『たまこラブストーリー』などでもそうだったが、『映画 聲の形』でも作中のいたるところで、ハイキーの淡いソフトフォーカスで光が揺れる映像やレンズフレアが度々登場する。それらの映像は、登場人物のPOVショット(心情の隠喩表現)である場合が多いが、その中には結弦(声:悠木碧)がいつも肩から下げているデジタル一眼レフのカメラから覗いた視点などが混ざることで、観客は必然的に、どこか手ブレする実写映像の画面を強く印象づけられるのだ。いずれにしても、山田をはじめ『映画 聲の形』のスタッフがアニメに限らない実写映画についての素養も豊富にあり、なおかつ本作においてそうした「映画的」な感覚を作品に積極的に取り込もうと企図したことは間違いないと思う。例えば、大今の原作マンガの物語にほぼ完全に忠実に作られている『映画 聲の形』が、唯一、永束(声:小野賢章)の自主映画制作のエピソードをごっそり削除していることは、その事実を逆説的に際立たせていると言えるだろう。
ただ、ここで急いでつけ加えておくと、日本のアニメの中で「実写的」なレイアウト表現を導入した試みは、『AKIRA』(1988年)の大友克洋以来、押井守をはじめ、すでに長い歴史がある。そうはいっても、『映画 聲の形』、あるいはより広く京アニが作り上げたこの表現は、21世紀に新たなデジタル技術が台頭したことで、それら先行作とはまた違った、きわめて繊細な表現を獲得している。こうした表現は、本作に続く山田作品の『リズと青い鳥』ではさらに洗練された形で発揮されている。そして重要なことは、それら実写を想起させるフラジャイルに揺れるPOVショットや、薄い皮膜を隔てたような物語世界の登場人物たちのまとう遊離した現実感が、一方では、主人公たち思春期の高校生たちが抱えている、バラバラによるべなく散らばったそれぞれの「小さな世界」のドラマを実に魅力的に描き出すことに効果を発揮しているという点だ。
アニメーション研究者の土居伸彰氏が指摘していたように(「2010年代、日本アニメから眺める世界のアニメーションとは?」『美術手帖』2月号所収)、こうした「ちっぽけな人たちに渦巻く混沌とした感情」を掬いとるドラマは、京アニの山田作品をはじめ、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)、『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)、『空の青さを知る人よ』(2019年)の長井龍雪作品など、近年の日本アニメに広く見られるようになっている。『映画 聲の形』が2016年に達成した表現は、そうした現代アニメの動向にも影響を与えていくことだろう。