エル・ファニングと映画との蜜月はいかにして生まれた? 出演作に垣間見える独自のセンス

エル・ファニングと映画との蜜月

世界のざらつきに自身を重ねる試み

 コッポラ・ファミリーとの出会いを運命的なものとするならば、『ジンンジャーの朝~さよなら、私が愛した世界』(サラ・ポーリー監督/2012年)以降のエル・ファニングは、ショウビズの煌びやかな世界よりも、周縁の世界のざらつきに身を投じる選択をしている。エル・ファニングのフィルモグラフィーを振り返るとき、ハリウッド的なビッグバジェットの作品は思いのほか少ない。ディズニー製作の『マレフィセント』は、例外ともいえる作品なのだ。

『20センチュリー・ウーマン』(c)2016 MODERN PEOPLE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 ここにエル・ファニングの意識/無意識的な、ある「試行」を読み取ることができる。たとえば、21世紀の傑作の一本ともいえる『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ/2016年)において、フェミニズムに関する書物を熱心に読む思春期の女の子を演じたように、エル・ファニングは出演作品を介して、学んだことを自身のパーソナリティへフィードバックさせる。マイク・ミルズが「(わたしの)パーソナリティは、他の誰かによって形作られる」と、他者との響き合いを主張するのに倣うかのように、エル・ファニングは自身の好奇心と探求心に忠実な作品を選択している。

『20センチュリー・ウーマン』(c)2016 MODERN PEOPLE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 ヴィンテージ・ファッションを好み、60年代~70年代のティーンエイジャーに強く惹かれるというプライベートのエル・ファニング(しかし学校に戻ると、そんな友達が周囲にいないことに気づいた、とインタビューで語っている)は、おそらく自身の趣向が周縁のパーソナリティを持っているということに自覚的だ。その意味で、小説『フランケンシュタイン』を18歳にして創作したメアリー・シェリーを演じる『メアリーの総て』(ハイファ・アル=マンスール/2017年)に出てくるセリフ、「私の選択が、私を創った」は、エル・ファニング自身の言葉としか思えないほどの強度を帯びるだろう。また、同じように『メアリーの総て』の「自分の作り上げた怪物に食われるな」というセリフは、『ネオン・デーモン』(ニコラス・ウィンディング・レフン/2016年)におけるジェシー=エル・ファニングの空洞の身体を想起させる。

『ネオン・デーモン』(c)2016, Space Rocket, Gaumont, Wild Bunch

 『ネオン・デーモン』はジェシーという一人の女性の身体を、「美の空洞」として、次々にメタモルフォーズさせていく傑作だ。ジェシーはモデル業界の「怪物」に囲まれながら、状況に対して常に受け身をとっているようでいながら、自身が最も強大な美の怪物であることだけを知らない。こういった周縁の世界のざらつきに自身を重ね、作品とともに成長していくエル・ファニングのフィルモグラフィーの中で、ほとんど語られることがない『ロウ・ダウン』(ジェフ・プライス/2014年)についてここでは触れたい。

 写真家ブルース・ウェーバーが手掛けた晩年のドラッグでボロボロになったチェット・ベイカーを追ったドキュメンタリー『レッツ・ゲット・ロスト』(1988年)のカメラマンを務めたジェフ・プライスによる、アメリカン・ニューシネマのテイストを持ったこの作品を私は偏愛している。伝説のジャズ・ピアニスト、ジョー・オバニー(ジョン・ホークス)を娘エイミー(エル・ファニング)の視点で追ったこの伝記映画の持つ「ざらつき」は、発光する白黒フィルム、そして朽ちていく白黒フィルムの伝説的傑作である『レッツ・ゲット・ロスト』の魂を正しく受け継いでいる。ここでのエル・ファニングは、『SOMEWHERE』の少女と同じく父親の隠し事に敏感だが、その観察する少女の視線にはリアクション/アクションのドラマティックな変化がある。かつて状況に対して受け身でいることで保たれていた無防備な少女の視線は、その透明性を保ちながら、探究心によって自発的なアクションへ移り変わっていく。それは作品とのフィードバック、響き合いと共に年齢を重ねてきたエル・ファニングの軌跡と重なる。では、エル・ファニングが作品選びの基調としているものは何か?

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