中村倫也・オン・ステージ! 『水曜日が消えた』が描く、かけがえのない日常への愛おしさ

『水曜日が消えた』が描く日常への愛おしさ

 新型コロナウイルスにより生活のルーティン化を余儀なくされた現在の私たちの日常と、映画『水曜日が消えた』の世界で描かれる日常は、どこか重なって見える。いや、「ルーティン化」という点においては、“これまでよりも際立っている”という表現にとどめておくべきか。そもそも日常とは、似たような時間が繰り返されるもの。ここにいま自粛などによる「制限」が加わることによって、私たちは日常から得られる刺激が少なくなったのだ。だから私たちは少しでも刺激を求めている。

 この『水曜日が消えた』の主人公は、キマジメかつ神経質で、多くの人の目には地味な男だと映るだろう。しかし、彼にはヒミツがある。彼は翌日(水曜日)になれば、スポーティーな好男子になる……はずだった。見た目はそのままに、彼は曜日ごとに異なる人格になる人間なのだ。だからこの映画の世界観において彼の身体は、あくまで容れ物でしかない。その主体は、曜日ごとに異なる内面にある。

 この容れ物となる“月曜日くん”〜“日曜日くん”までの身体を動かし、それぞれに異なる人格を操るのが、本作の主演を務める中村倫也だ。つまり本作においてこの俳優は、“1人7役”という偉業を成し遂げているのである。

 とはいえ主人公となるのは、キマジメな言動が目立つ“火曜日くん”。少々ダーティな香りのする“月曜日くん”や、アーティスティックな感性を持つ“木曜日くん”らの姿(人格)は、あまり登場することがないのだ。正反対の人格である“月曜日くん”とは対峙する機会があるものの、ほかの人格の存在は物語のラストまで、観客に対して“匂わせる存在”にとどまっている。つまり、私たちは中村倫也の“七変化”をはなから目の当たりにできるのかと思いきや、それは物語のラストまでおあずけなのだ。しかし、もっとも地味な“火曜日くん”がメインとなることで、後々になって登場する個性的なそれぞれの人格は、観客にとってより際立って見えることだろう。物語の流れにあわせて、「Tomoya Nakamura on stage!」が展開していくことになるのである。決してしびれを切らさぬよう、聖火ランナーともいえる“火曜日くん”の日常を見守ろうではないか。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる