映画雑誌が日本映画界に果たしてきた役割とは? 展示会『映画雑誌の秘かな愉しみ』を訪ねて
映画雑誌が日本映画界に果たした役割
また、映画雑誌の誕生から、戦前、戦中、戦後とたどっていくと、モノクロの小冊子的で文字ばかりだったところからはじまり、次第にカラーになり、写真がふんだんにつかわれはじめ、グラビアが充実したり、レイアウトが凝ったものになったりと、どこかサイレントからトーキー、カラーへとうつりゆく映画の遍歴とも重なる。
さらに時代の影もまた色濃く出ているとでも言おうか。戦前、多様化して様々な映画雑誌が生まれながら、戦争になると、『キネマ旬報』をはじめほとんどの映画雑誌が休刊。そのころの映画雑誌は紙の質も粗悪でどこか雑誌そのものが単色で味気ない。それが戦争が終わると、何かから解放されたかのようにアメリカ映画一色になり、誌面も自由で華やかな変貌を遂げる。映画は時代を映す鏡とはよく言うが、映画雑誌も同じことがいえるのかもしれない。
「1940年を境にほとんどの映画雑誌が一度姿を消します。当時、すでに映画雑誌の大手となっていた『キネマ旬報』も一度休刊となります。その理由は、「キネマ」というカタカナが使えなくなったから。ただ、『キネマ旬報』は、1941年に『映画旬報』となって引き継がれるんですね。ところが、戦後に『キネマ旬報』として復活したとき、『映画旬報』の時代は『キネマ旬報』ではないという意見に至った。確かに映画雑誌から、「その時代」が見えてくるかもしれません」
それからもうひとつ、戦前の映画雑誌を見ているとひとりの著名人の存在が浮かび上がる。それは、1930年代、コメディアン、喜劇俳優として国民的人気を得ていた古川ロッパの存在だ。コメディアンとして名をはせる前、彼はいろいろな映画雑誌の編集部を渡り歩いている。濱田氏はこう語る。
「これはあくまで推測に過ぎないんですけど、古川ロッパは自分で映画雑誌をもって、それを大成功させたいとの夢を持っていたんじゃないかと思います。というのも、彼は大学時に『映画世界』を発刊し、自らも執筆。同時に『キネマ旬報』に投稿して、しまいには編集部に入り込む。また菊池寛に文芸春秋社に誘われると、『映画時代』の編集を任される。ほんとうに映画が好きで映画を伝えることも好きだったように映る。ただ、哀しいかな、彼が関わると、どうもその映画雑誌の雲行きが怪しくなるんです。そうこうしているうちにタレントとして大成功して、映画雑誌とは疎遠になっていく。ひとつなにかかみ合えば、映画雑誌編集者としても彼は成功していたかもしれません」
また、当たり前といえば当たり前だが、映画の魅力を広く多くの人に伝えることで、日本における映画文化の発展させることに、映画雑誌が大きな役割を果たし、寄与していたことにも気づくことになる。
「確実にある時代、映画雑誌が映画ファンと映画の作り手、映画の書き手、そういう人たちの出会いの場、場合によっては論争の場になっていた。そういう場になっていたことが、戦前にも戦後にもあった。
たとえば戦前の『キネマ旬報』がそうだったと思うんですが、映画好きが同人誌的に始めて、徐々に発行部数を増やしていく。雑誌を読んだ若い映画ファンが投稿を始めて、編集部に出入りするようになる。すると編集部サイドは優秀な者を取り込んで、書き手にする。そして、次にそうした人材を映画ジャーナリズムの世界へ送り込む。このような形で映画ジャーナリズムが形成されていった。そういう意味で、映画雑誌が日本映画界に果たした役割はけっこう大きいのではないかと思います。
あともうひとつ、映画雑誌は、観る人、作る人、書く人が実は同居できる貴重な場なんだなということを今回いろいろと調べる中で実感しました。それは今も昔もあまり変わっていないような気がします」