菅田将暉が演じた主人公は山崎貴の“自画像”だ 『アルキメデスの大戦』が描く倒錯した唯美史観
この映画の冒頭は、戦艦大和の壮烈な沈没シーンを、上質きわまりないVFXによってリアルに見せている。「映画はつかみが重要だ」という定式からすれば、これほどそれに叶ったファーストシーンはない。と同時に、このファーストシーンは、この映画の結末をいきなりバラしてもいるのだ。ようするに、戦艦大和建造の是非をめぐるこの映画の物語は、菅田将暉、柄本佑、舘ひろしの迫真の演技にもかかわらず、彼ら「反戦派」の失敗に終わる、ということがあらかじめ予告されたことになる。私たち日本人の誰もが、大和はじっさいに造られ、その巨体ぶりを持てあましたままアメリカ軍の攻撃に耐えられず、日本近海にあえなく沈んでしまったことを史実として知っている。この映画はずっと「大和は造られるべきではない」というメンタリティを主軸に進んでいったはずなのに、大和は造られてしまうわけだ。
この苦渋の転回は、すでに『永遠の0』でも起こっていたことだ。「腰ぬけ」と仇名されることも厭わずに生命を重んじる思想を守っていた特攻隊員(岡田准一)が、いざその時になってみると、だれよりも立派に華と散ってみせる。野蛮な戦争に消極的だった思慮深き主人公が、やむを得ないと覚悟を決めてからの行動は、それまでと180°異なったものとなる。一転してそれは模範的な自己犠牲、滅私の鏡へと移行する。このような転回装置の機能ぶりこそ、図らずも山崎映画の本質ではないか。ネタバレを避けるために具体的に書くことは控えるが、『アルキメデスの大戦』ラスト近くの菅田将暉と田中泯ーーいわばこの映画における不倶戴天の敵同士ーーが大和をめぐって語り合うシーンは、転回装置としての山崎映画の面目躍如たるシーンだ。そこでひとつだけ指摘させてもらいたいのだが、この会話シーンの中で田中泯が恍惚とした様子で「この戦艦は、日本という国の《依り代》なのだよ」と述べる。《依り代(よりしろ)》。辞書には次のように書いてある。「神霊が寄りつくもの。神霊は物に寄りついて示現されるという考えから、憑依物としての樹木・岩石・動物・御幣など」。もしアメリカと戦争したら、日本は確実に負ける。そのとき、滅びゆく日本の《依り代》として戦艦大和が機能するとしたらーー。
この「倒錯した唯美史観」とでも呼ぶべき、じつに気味の悪い滅びの美学を、避けがたいものとして選び取らされる心象を、山崎貴は折りにつけ描いたのではないか。「嫌々ながらも、まんざらでもない」この心象は、単細胞な好戦思想よりもよほど危険なものだ。そういえば、アニメ界の巨匠・宮崎駿も、自身最後の長編『風立ちぬ』(2013)で「倒錯した唯美史観」に取り組んでいた。飛行機の設計に夢を託した主人公は、零戦の製造に加担し、多くの若者を死へと追いやった。ラスト、主人公が憧れのカプローニ伯爵と再会する丘は、死後の世界であろう。おそらく『風立ちぬ』の主人公は自決の道を選んだのだろう。新元号・令和となった新時代、私たちは再び「倒錯した唯美史観」を避けがたいものとして選び取らされていくプロセスを辿るのだろうか?
山崎貴映画とは、山崎本人が望むか望まざるかとは関係なしに、「倒錯した唯美史観」が選び取られていくほかはないプロセスの、無意識の露払いを演じているのだ。そういう意味で評者には、『アルキメデスの大戦』の主人公・櫂直が山崎貴の自画像に思えてならない。彼には来年、東京オリンピック開会式・閉会式のエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターとしての大役が控えており、これと相前後して、この作り手の作品がどのように(作り手本人が好むと好まざるとにかかわらず)機能しようとしているのか。それを監視しつつ、解析するのは、批評というものの大事な役目だと言える。
■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
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■公開情報
『アルキメデスの大戦』
全国公開中
原作:三田紀房『アルキメデスの大戦』(講談社ヤングマガジン連載中)
監督・脚本・VFX:山崎貴
出演:菅田将暉、浜辺美波、柄本佑、笑福亭鶴瓶、小林克也、小日向文世、國村隼、橋爪功、田中泯、舘ひろし
配給:東宝
(c)2019映画「アルキメデスの大戦」製作委員会 (c)三田紀房/講談社
公式サイト:http://archimedes-movie.jp/