『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの
現代アニメのポストヒューマン性
何にせよ、『天気の子』がさまざまな面で、今日のポストヒューマン的な表現や世界観に馴染んでいることは明らかなように思えます。そして、そのことはまさに現代のアニメーション表現が抱えている本質的な問題とも一脈通じるところがあるでしょう。
たとえば、批評家の石岡良治は最近刊行した新著で、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005)に触れながら、「シャフト作品における物と情報のあり方は、人間以外の様々な事物が「群像劇」のエージェントとなる状況を作り上げてい」(『現代アニメ「超」講義』PLANETS、98ページ)ると述べていますが、この指摘は、「人間以外の様々な事物」がかつてとは異なったあり方で人間と関わってくる様子が描かれるという点において、『天気の子』で示されたようなポストヒューマン的なリアリティとも共通する部分があります。
あるいは、今日のアニメーション作品が従来のイメージの「人間」とはかけ離れた存在を描くようになっているのではないかという見立ては、アニメーション研究の土居伸彰も同様に提起しているものです(『21世紀のアニメーションがわかる本』)。土居によれば、現代のアニメーション表現には、「『私』から『私たち』へ」とでも要約できるような表現上のパラダイムシフトが見られるといいます。いってみれば、ディズニーからスタジオジブリまで、かつての20世紀的なアニメーションが確固としたアイデンティティを備え、世界と対峙する「私」を描いていたのだとすれば、21世紀の近年になって現れたアニメーションの注目作は、おしなべて複数の「私」があいまいに入れ替え可能となり、匿名的に共存し合う他者性のない「私たち」を描いている。土居は、そうした新たなキャラクター像を「棒人間」や「ゾンビ」といった言葉でいいかえているのですが、これもまた紛れもなく通常の人間から逸脱したポストヒューマンの姿そのものだろうと思います。土居は、そうした――ここでの表現を使えば――ポストヒューマン的な存在の具体的な例を、『映画 聲の形』(2016)や、まさに『君の名は。』に見出していたのであり、その文脈を踏まえても、『天気の子』がやはりそうしたパラダイムに沿って成立していることは一定の程度以上に確かなように感じられます。
以上、さまざまな観点から辿ってきましたが、『天気の子』は「人間以後」の秩序や主体像をはっきりと垣間見せてくれるアニメーションだといえるのではないでしょうか。