『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの

『天気の子』が示唆する“人間性のゆくえ”

ついに全面化した天気=風景モティーフ

 それゆえに、今回の新作で新海が、自らの代名詞的なモティーフである「天気」=「風景」を、満を持して本格的に物語の主軸に据えたのも、そうした人物描写の希薄さと表裏の関係にあると理解できるでしょう。

 余談ながら、新海の次回作が「空」や「雲」を本格的に舞台にするものになりそうだという予感は、じつはぼくには以前からありました。というのも、3年前の『君の名は。』公開直後に、――確かLINE LIVEでの映画公開記念イベントに新海が出演した際だと思うのですが――、彼がそれに近いことを答えていたからです。ぼくも細部は記憶が曖昧なのですが、その時に新海は、司会の女性アナウンサーに早くも次回作の構想を問われていて、「かなとこ雲」(だったと思うのですが)という積乱雲の一種で横に広がった雲があって、そういう雲が舞台になるような物語を作ってみたいと答えていたのです。おそらくそのイメージは、上空を飛翔する陽菜の目の前に広がる、庭のように緑が生えた大きな雲として『天気の子』に活かされています。

 ともあれ、デジタル時代のアニメーション作家である新海の創造性の内実を理解する時に、この風景=天気(と今回の物語の主要な要素である雨=水)のイメージはきわめて重要です。

 かつて映画学者の加藤幹郎は、新海アニメーションのクラウドスケイプ(風景表象)について論じ、その生成変化する雲の動きの「可塑性」(かたちの変化)に着目したことがありましたが(「風景の実存」、『アニメーションの映画学』臨川書店所収)、以前、ぼくも新海について論じた拙稿(「彗星の流れる「風景」」、『ユリイカ』2016年9月号所収)で記したように、こうした雲や水の表現が象徴的に描き出す可塑性のイメージ――グニュグニュモコモコと動くかたち――とは、一方でアニメーションというメディウム、他方でデジタル映像というメディウムが備える特権的な特徴でもあります。たとえば、水の表現に関していえば、6月にリアルサウンド映画部に寄稿したコラム(「『海獣の子供』『きみと、波にのれたら』『天気の子』 今夏アニメ映画の注目ポイントを一挙解説!」)でも書いたように、『Free!』(2013-)などの京都アニメーションの諸作品をはじめ、今年の夏アニメでも、『海獣の子供』や『きみと、波にのれたら』など、デジタル時代ならではの、さまざまな表現の実験や革新が試みられています(そういえば、『天気の子』で登場する魚のかたちをした雨滴も、宮崎駿『崖の上のポニョ』[2008]の「水魚」を思わせました)。もちろん、新海自身、雨=水の表現については、すでに『言の葉の庭』(2013)で極限まで追求していました。

 このように、『天気の子』のポストヒューマン性とは、まずは新海自身のキャリアを振り返ってみた時に、彼の創造性の根幹にあったキャラクター描写の希薄さに見出すことができます。さらに、なおかつそれは、あたかもそれと引き換えに全面化した、デジタル/アニメーション固有の特性を存分に表現するモティーフであり、なおかつ彼の作品の特権的なイメージを形作るクラウドスケイプ(天気=風景)の表現とも表裏をなしているというわけです。

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