現代に巣食う“社会的抑圧”に問題提起 映画3作に見る、ジェンダーロールに囚われた女性たちの姿
「らしさ」という“檻”に閉じ込められた女たち
「女の子は女らしく」「男の子は男らしく」と言われて続けて育った私たち。自分でなにかを決めるとき、「自分らしさ」よりも「アラフォーらしく」「妻らしく」といった社会や文化が決めた役割を軸に決めてしまうときがある。こういったジェンダー・ロール(性別役割)の抑圧はある意味、私たちを閉じ込める“檻”のように感じはしないか。
今年は、男女同権に向けて戦い続ける米最高裁判所判事のルース・ベイダー・ギンズバーグの伝記映画『ビリーブ 未来への大逆転』やドキュメンタリー『RBG 最強の85才』、100年も前に「女性の自由」と「自分らしさ」を求めたフランス人作家コレットの成長物語を綴った『コレット』、「妻の役割」から逃れられず、作家の夫のゴーストライターとなった女性を描いた『天才作家の妻』など、ジェンダー・ロールという檻から脱出しようとした女性を主題にした映画が多い。今回は、ただ今公開中の3作品をジェンダー・ロールの視点から紐解いてみよう。
“母親”という檻に抑圧された女:『田園の守り人たち』
『田園の守り人たち』は、1915年、第一世界大戦下のフランスの農村を舞台に、農園を運営する未亡人オルタンス(ナタリー・バイ)、夫が出征中の娘のソランジュ(ローラ・スメット)、若い働き手フランシーヌ(イリス・ブリー)ら3人の女性たちが男性不在の農場を必死に守り続ける人間ドラマだ。
ナタリー・バイとローラ・スメットの親子共演に加え、本作で俳優デビューしたイリス・ブリーの演技合戦が見事な本作。その上、牧歌的な田園風景に青をアクセントとした映像美は、ゆったりとした時間の流れや秋のそよ風を感じさせるほど心地がよい。
前作『神々と男たち』(2010年)でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、本作を監督したグザヴィエ・ボーヴォワに筆者が電話インタビューしたところ、田園風景には画家ジャン=フランソワ・ミレーの「落穂拾い」や「種まく人」、神秘的かつ妖艶なフランシーヌの入浴シーンにはエドガー・ドガの「入浴する女」が念頭にあったとのこと。
「戦争は男性だけのものではなかった。社会に残された女性たちもまた“戦っていた”ことを伝えたかった。そして、男性不在社会のなかで、女性は創意工夫して男性以上の成果をあげることができたことも、描きたかった」と監督が語ったこの作品は、戦争中に女性たちが農場を機械化することで、男性以上に生産性を高めた点が強調されている。
さらに、貯金がないと結婚も難しい下層階級の女性、不慮の妊娠で窮地に陥る未婚女性、男性と違い貞節を強いられる既婚女性……20世紀初頭の女性たちが直面した性差別もまざまざと映し出されているが、これらの社会的プレッシャーがいまだに現代にもはびこっていることに観客は気づくだろう。
劇中、農園主のオルタンスは、孤児であるフランシーヌを可愛がり、社会階層を超えて母娘のような絆を結ぶが、次男のジョルジュが帰省中に彼女と恋に落ちるのにどこかひっかかりを感じてしまう。同じとき、娘のソランジュがアメリカ兵と不倫をしていることが発覚。村で醜聞が広まるのを避けるため、アメリカ兵の噂の相手をフランシーヌに仕立てあげて解雇することで、“母親”としてソランジュとジョルジュを守ろうとするのだ。
社会的弱者であるフランシーヌを踏みにじってしまう彼女の決断には、本来、平等精神に満ちた誠実なオルタンスの“自分らしさ”が、共同体としての“村”や“母親らしさ”という“檻”に押さえこまれているようにも見えよう。
やがて、戦場から戻り女たちの改革に目を見張りながらも、再び農場主に収まり、土地を巡って醜い言い争いを始める男たち――。そんな男たちを尻目にオルタンスはこう言い放つ。「以前の姿に戻ったのよ」と。
「第一次世界大戦と第二次世界大戦、戦争が起こるたびに女性は社会進出を果たしましたが、男性が戻ると女性たちは以前と同じように職場での脇役や家庭へと追い戻されたのです」と言うボーヴォワ監督がこの作品で浮き彫りにした“女たちの戦場”。それは、男性不在社会ではなく、男性優位社会こそが“女たちの戦場”だということかもしれない。