性的マイノリティの問題を同性愛者の視点で描いた『きのう何食べた?』と『腐女子、うっかりゲイに告る。』
近年のテレビドラマは、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を踏まえた上で社会派娯楽作品を作ろうと模索する作品が増えている。その際に社会的なテーマを選ぶことが多いのだが、今クールでは性的マイノリティの問題を同性愛者の視点から描いたドラマが並んだ。中でも面白かったのが『きのう何食べた?』(テレビ東京系)と『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』(以下『腐女子』、NHK総合)である。
『きのう何食べた?』と『腐女子』の優れた挑戦
『腐女子』は、ゲイの高校生・安藤純(金子大地)を主人公にした青春ドラマ。当初は、BLを消費する腐女子をゲイの視点から批評的に観察するような作品になるかと思われたが、腐女子だけでなく異性愛者の人々が無自覚に抱えている同性愛者に対する差別意識を純の視点から描写することで燻り出していく前半は実に見事で、こういう作品をNHKの「よるドラ」枠で作るという攻めの姿勢も含めて高く評価したい。
しかし、終盤には若干不満を感じる。ゲイであることをクラスメイトに知られた純が精神的に追い詰められて、自殺未遂を起こす。本来ならそこで純の物語からクラスメイトが純の自殺未遂をどう受け止めるのか? という物語に切り返さないといけなかったのだが、どうも純以外の登場人物、特にクラスメイトの描写が薄く感じた。
小説タイトル『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(KADOKAWA)では僕が主語だったのに対し、『腐女子、うっかりゲイに告る。』と腐女子を主語に変えたのは、一人称の小説に対して、三人称のドラマという構図を打ち出すと同時に小説の世界を逆側から描くという意思表示かと思っていたのだが、残念ながらそういう展開にはならなかった。
原作準拠の作りによって、ゲイであることを隠し心を閉ざしていた純が、精神的に成長する物語としてはきれいにまとまっているが、周囲の人々が純のことをどう受け止め、内なる差別心とどう向き合ったのか? という側面が弱く、同性愛者の物語を第三者である腐女子が消費していることに対する問いかけも曖昧になってしまったように思う。
優れた挑戦だったからこそ、小説以上の踏み込んだ切り口が見たかった。
対して『きのう何食べた?』は『腐女子』が曖昧にしてしまった同性愛者に対する異性愛者からの目線を、常に意識させる作りとなっていた。よしながふみの同名漫画(講談社)をドラマ化した本作は、食事を通してシロさん(西島秀俊)と賢二(内野聖陽)という同性愛者のカップルの日常を淡々と描いた作品だ。
物語は一見、シロさんと賢二の、二人だけの世界を淡々と描いているように見えるのだが、他の同性愛者のカップルとの違いの描写はもちろんのこと、職場の同僚や家族といった異性愛者たちとの意識のズレもしっかりと描いている。だからこそ、本作を見ていると、シロさんたち同性愛者と自分は何がどう違うのか? と深く考えさせられる。原作の良さはもちろんだが、エピソードの選択が的確だからこそ、一見ゆるい作りの中に常に緊張感が存在しているのだろう。