宮台真司の月刊映画時評 第10回(後編)

宮台真司の『寝ても覚めても』評:意味論的にも視覚論的にも決定的な難点がある

震災後のrealismが全く考察されていない

 ここに至って僕らは「震災後のrealism」との、あるべきだった接続可能性を論じられます。誤解を畏れずに言えば、「これが続くと思っていたものが実は続かないという新しいrealism」。更にパラフレーズすれば、「続くと思っていたrealは実は存在しなかったという災後のrealism」。「改訂版朝子」こそ新しいrealismに適応した存在として相応しいのです。

 更に深く掘ります。「これがreal」という不動の前提がくつがえったのであれば、その不動の前提の上で「うまく生き延びる」ことを可能にするはずのrealism──例えば、亮平は亮平である」という自同律──には、実際に「うまく生き延びる」ことを可能にする機能が、(少なくとも思ったほどには)存在しなかったことになります。realismも所詮その程度…。

 震災前には、「鏡の中」は「鏡の中」、「鏡のこちら」は「鏡のこちら」という自同律的な輪郭づけが、「うまく生き延びる仕方=realism」にとって不可欠だと思われました。ところが震災後には、「自同律的な峻別を施したところで、どのみち外部からの反理由律的な介入(クァンタン・メイヤスー)によって「死ぬときは死ぬ」というontologyに目覚める訳です。

 だから「そんな凡庸なrealismを無視するぞ」と宣言するのが改訂版朝子になるのです。そうすれば、「震災後」を生きるというモチーフと、「鏡の中」を生きるというモチーフを、直結できます。かくて、「鏡の中」は「鏡の中」、「鏡のこちら」は「鏡のこちら」という自同律を無視し、「鏡の中」を「鏡のこちら」として生きる非反動的なラディカリスト・朝子が誕生します。

豊かなモチーフになるはずが活かされない

 他に気づいたことを話します。本作で残念だったのは活かせるはずのモチーフを活かしきれていないところ。それは反復のモチーフです。映画には、「動く水」(海辺や川辺)が繰り返し出てきます。チャイムの音(家やオフィスのそれ)も繰り返し聞こえます。携帯電話の着信の繰り返しも印象的です。何よりも重大な反復モチーフが以下のところに見られます。

 亮平に「乗り換え」てから、「亮平は」朝子を助手席に乗せて東北での震災ボランティアに向けて「北に車を走らせ」ます。麦との再会後の「駆け落ち」では、「麦は」朝子を助手席に乗せて実家に向けて「北に車を走らせ」ます。そして両方のシーンに共通して、車内で男から同じく眠るようにと声をかけられます。この反復モチーフを活かすとはどういうことか。

 このように「見掛けの営みが同じ」というモチーフを持ち込む場合、それゆえに生じる予感や期待の「違い」を利用して、「異なる営みが同じ見掛けであること」に、適応しようとしても適応できないとか、逆に抗おうとしても抗えないといった葛藤を、描くべきなのです。監督の師匠である黒沢清や黒沢が私淑するヒッチコックであれば、そうしたはずです。

 関連して言えば、同じ見掛けの出来事でも、場所性が違えば、場所性がノイズになることで、異なった出来事として現れます。更に言えば、1960年代に小説家のJ・G・バラードが、大岡昇平の影響下で述べたように、人の内面は、「風景によって浸透されることで」想像もできないものへと変貌します。この映画はそのことについても鈍感だと感じます。

 物語は東日本大震災を挟んでいます。だから、震災前の東京と、震災直後の東京との、場所性のrealの違いがあるはずなのです。震災ボランティアとして活動する東北の沿岸部と、震災後に直ちに元の相貌を取り戻した東京との、場所性のの違いもあるはずです。東京と、麦の故郷で亮平の転勤先でもある大阪との、場所性のの違いもあるはずなのです。

 この映画はそれを取り込みません。ただし「場所性による浸透」を必ずしも描く必要はない。ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』(1960)には、登場人物らの関係性の変化という本筋とは(一見)無関連に、ナポリの魚市場を二人の男と一人の女が徘徊するシーンが104秒に及び描かれます。そこでは無関連性がむしろ三人の関係性の輪郭を際立たせるのです。

 そうした表現を徹底的に擁護したのが映画批評家でもあった吉田喜重です。彼によれば、映画の本筋が確かに人間関係にあっても、世界の豊かさは人間関係に還元できません。だからこそ、世界は豊かなのに人間関係に登場人物や観客の注意が集中し過ぎている事実を、場所性が際立たせます。『太陽がいっぱい』の「無関連性という関連」の機能です。

 その点、冒頭で話した、性交を描かないことで、同じ顔にこだわるという表層の(しかし結局は反動的な)戯れが「ありそう」に見えるという錯覚が生じるのと同様、場所性をキャンセルすることで、無理筋のこだわりを含めた表層の戯れが「ありそう」に見えるという錯覚が生じます。いわば、表層劇を成り立たせるために深さのない世界が描かれているのです。

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■公開情報
『寝ても覚めても』
公開中
出演:東出昌大、唐田えりか、瀬戸康史、山下リオ、伊藤沙莉、渡辺大知(黒猫チェルシー)、仲本工事、田中美佐子
監督:濱口竜介
原作:『寝ても覚めても』柴崎友香(河出書房新社刊)
脚本:田中幸子、濱口竜介
音楽:tofubeats
製作:『寝ても覚めても』製作委員会/COMME DES CINEMAS
製作幹事:メ〜テレ、ビターズ・エンド
制作プロダクション:C&Iエンタテインメント
配給:ビターズ・エンド、エレファントハウス
2018/119 分/カラー/日本=フランス/5.1ch/ヨーロピアンビスタ
(c)2018 映画『寝ても覚めても』製作委員会/COMME DES CINEMAS
公式サイト:www.netemosametemo.jp

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