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現代を生きる私たちは何を直視すべきか? 『検察側の罪人』が投げかけた問いを考える

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 石田ゆり子、古市憲寿、三浦瑠麗、鳥越俊太郎、立川志らく、遠藤憲一、山口真由、ロバート・キャンベル、尾木直樹、佐藤優、有村昆、ホラン千秋、堀江貴文、コシノジュンコ、茂木健一郎……。映画『検察側の罪人』の公式サイトやポスターには、こうした人々からの感想が載せられている。活動領域も、思想も、専門も、世代も全く異なる人々が、思い思いに作品を評価している。それは、この映画がそれだけ様々な視座から楽しんで、考えることができる作品であることを示しているのかもしれない。ただ、先に挙げた人々の作品評の中には、頻繁に出てくる言葉があった。それが“正義”だ。

私たちは“正義”についての作品を観続ける

 映画に限らず、古くから正義についての作品が作られ続けてきた。そもそも絶対的な正義なんてない(とされている)。それでも、『検察側の罪人』のような映画を観るたびに、「正義について考えさせられた」「真実にどれだけの意味があるのか」「あるべき制度の形とは」といった思いを巡らせる。そして今回の、木村拓哉演じる最上毅らの姿もまた、正義について考えるきっかけとなった。

 一部の人々を除いて、日常生活で正義について深く考えなければならない状況は、あまりない。だからこそ、“正義”や、“大義”や、“真実”についての葛藤は、自分たちには何ら関係のないこととしてしまいがちだ。ただ、例えばテレビで連日流れているようなニュースを見ると、私たちが絶対に“最上的ダークサイド”に堕ちることはないとは言い切れない。「こんな馬鹿げたことをやるわけがない」と思っていても、実際に“一線を超える”人間は思いのほか多い。正義や大義には絶対的な答えが与えられているわけではない。それは裏を返せば、“都合よく解釈する余地がいくらでもある”。だから、“正義”や“大義”は、例えば自分の行動を自分自身に納得させることに使われる可能性がある。

 それが企業の中であれ、学校の中であれ、チームの中であれ、“一線を超える”人間はいつも、いかにも危険なオーラを放っているタイプというわけではない。それこそ、“虫も殺さぬ”顔をしていることも多い。周りの人々と同様に、食事をし、家族を持つ。『検察側の罪人』でも最上には家族がいる設定になっている。最上とその娘(山崎紘菜)の会話はありふれた父娘のやりとりである。

 最上もまた正義を振りかざしたが、正義や大義は、ある場合においてはとても“便利”なのだ。もちろん私たちがみな最上みたいになるわけではないが、それらに頼ってしまう自分と私たちは隣り合わせで生きているとも言える。『検察側の罪人』のような映画が提供する問い、それは「正義とは何か」というよりも、「どうして私たちは正義について考え続けなければならないのか」の方が相応しいのかもしれない。というのも、正義や大義は時に、危なく“利用”されるかもしれないから。

 私たちは、正義を題材にああでもない、こうでもないと話し合い続けることをするほかない。というより、していかなければならない。自分の唱える正義に固執し続けるのでもなく、「正義とはいろいろな形がある」と何も考えないのでもなく、ひたすら考え続けて、それらをエゴにとどまらないようにするべく、人と対話を重ねること。どうしたら可能な限り悲劇を減らせるのか、考え続ける意義はある。

※以下、一部ネタバレを含みます。

      

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