『高嶺の花』峯田和伸はなぜ石原さとみを許したのか? 小日向文世が囁く“深い呪い”と考える
ただ、直人は違う。ももの良いところも、悪いところもひっくるめて全てを受け入れる。常に対岸から人を眺めて、その中から良い面を見つけて評価する。第1話の“喜怒哀楽”の話の中で、直人は誰のことも憎まないももを「いい女」だと褒めちぎった。本人がネガティブに捉えていることであっても、力づくでそれを引きはがそうとはしないで、まずそんな一面を“受容”しにかかる。これこそが、本作の中でにじみ出る直人の“優しさ”を根拠づけるものである。先に述べたように、ももの裏切りさえをも受け入れ、そしてそれに許しを与える。そうすることが人のためになるのなら、“受容”する価値があると。
受容は拒絶を乗り越える。このことを証明する事例を、私たちはすでに知っている。それは、宗太の物語である。本作の重要なサイドストーリーである、この宗太の成長物語は、第6話では一つ大きな見どころがあった。直人に勧められて始めた、“日本一周の旅”の途中で出会ったイルカ(博多華丸)とのやり取りの中でそれは見受けられる。大きな持病を抱えながらも、手術を受けずに、彼が住まう山中で死ぬと決めたイルカ。そんなイルカに対して、宗太は激高する。「イルカさんは 僕の味方だ! だったらまだ行かない。この野郎! クソが! 僕の味方なら、僕もイルカさんの味方だ! バカじゃね? 1人でいるの怖いくせに強がって! 一緒じゃんか!」とまくし立てるのだ。
あれだけ人との関りを拒絶してきた宗太が、ここにきて大きな変化を迎えた。イルカを受容しはじめたのだ。いや、正確に言えば、自分が目をそらし続けた、“拒絶し続ける”自分を受容し始めたのだ。その結果、何をすべきか、どうあるべきかが見えてくる。相変わらず言葉遣いは荒いものの、イルカという人間を“味方”として受け入れることは、“拒絶”克服の大きな一歩である。はじめは鬱陶しく思っていた、直人からのメール越しの言葉が、宗太の中で着実に蓄積していき、それらを宗太自身が自分なりに受け止めて行動に起こしたのだ。直人の言葉にはそんなことを可能にするパワーがある。
だからこそ、ももにだってきっとできたはずなのだ。一つのあるべき姿としての正解をいきなり求めようとせずに、まずは自分をあるがままに受容する。そして、その結果ほしいと思うものは、何だって自分の中に受け入れていく。これこそが、ひょっとすると市松の“呪い”を解く鍵であったのかもしない。ももは第6話になっても、いまだに自分が置かれた状況を、もどかしく思い、イライラを爆発させる。今自分が苦しめられているのは、自分自身に原因があるとでもいうかのように市松から呪いをかけられ、大きな十字架を背負いこんでしまっている。直人は、ももを“他者を憎まない人”と評したが、作中を通じて、何度も見せるももの苛立ちは、まるで自分自身に向けた憎しみのように見えなくもない。抑圧された憎しみは必ずどこかに、はけ口を見つけてはき出される。筆者は門外漢にして、華道の世界のことを詳しく知らないので一概には言えないが、果たして本当に直人を切る判断は正しかったのか、考えさせられるところである。
(文=國重駿平)
■放送情報
『高嶺の花』
日本テレビ系にて、毎週水曜22:00放送
出演:石原さとみ、峯田和伸、芳根京子、千葉雄大/升毅、十朱幸代/戸田菜穂、小日向文世ほか
脚本:野島伸司
チーフプロデューサー:西憲彦
プロデューサー:松原浩、鈴木亜希乃、渡邉浩仁
演出:大塚恭司、狩山俊輔、岩崎マリエ
(c)日本テレビ
公式サイト:https://www.ntv.co.jp/takanenohana/