有村架純の「まなざし」と松本潤の「言葉」が行間を埋めるーー映画『ナラタージュ』の文学性
ちなみに最初は、泉の気持ちをどこかで感じていながら、いかにも大人な態度でそれをはぐらかし、けれども深夜に突如電話を掛けて弱音を吐いたり、自身の悲痛な過去を告白することによって泉の心を翻弄する、葉山の無意識の「狡猾さ」が気になった。けれども、泉の前に小野という人間が現れ、彼女に対する好意を態度で示すようになるにつれ、泉の「狡猾さ」も徐々に顔をのぞかせてゆくのだった。「小野くんは、わたしのどこが好きなの?」。その答えに確信が持てないながらも、そんな彼の「愛」に何とか応えようとする泉。しかし、それは果たして「愛」と呼べるのだろうか? 「愛するよりも、愛されるほうが幸せ」……そんなふうに人は言うけれど、わたしは愛されるよりも、愛したい。でも、愛したからには、やっぱり愛されたい。無論、それは小野だって同じである。まるで鏡合わせのように、お互いの姿を映し合う2人の関係性。
とはいえ、小野もまた小野である。当初は、泉に対する好意を、若者らしい真っ直ぐな言葉と行動で示していた彼は、泉の心のなかに棲み続ける葉山の存在に心を乱され、いつしか自らの内面に眠る暴力性を統御できなくなってしまうのだ。笑いながらキレる坂口健太郎。豹変する小野の態度に動揺しながらも、そんな彼の直截的に「愛を乞う」態度によって、自らのなかに眠る葉山への思いに気づいてしまう泉。それは、あまりにも自分本位であるようにも思える。そう、この映画が、通常の「恋愛映画」と異なるのは、「恋愛」というものの内実にある、自己本位性や利他性、共依存、あるいは打算や保身など、誰もが心の片隅に持っている感情を、ごく自然な形で露呈させている点にある。しかし、そんな「恋愛の内臓」ともいうべきリアルを抉り出した先にあるのは、より実存レベルの痛切な「思い」なのだった。「わたしには、あなたでした」。この言葉が本当に意味するものとは何なのか。そして、最後の最後に葉山が吐露した、泉に対する本当の「思い」とは。けれども、そのすべてが明らかになってもなお――否、むしろ、そのすべて明らかになったからこそ、その「思い」は、彼女の生涯において不変の輝きを放ち続けるのだった。
そう考えると、この映画は果たして本当に「恋愛映画」と呼べるのか?という疑問も湧いてこなくはない。むしろ、3人の登場人物が、それぞれの「青さ」を露呈しながら、少しずつ誤った言葉や行動でお互いを傷つけあう……そんな「青春の蹉跌」を描いた映画であるようにも思える。否、もちろん、これは間違いなく「恋愛映画」なのだろう。しかし、この映画が射程するのは、「一生に一度の恋」云々ではなく、「誰かに“救われた”経験のある人すべて」なのではないだろうか。それは何も、男女の「恋愛」に限らない。今は傍にいない「あの人」がいたからこそ、今のわたしが在る。確かにそう言い切れるような「あの人」を思い出すことは、たまらなく甘美で……今を生きる「よすが」となるものなのだから。女性はもちろん、男性諸君にも、是非スクリーンで味わってもらいたい一本だ。
■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。Twtter
■公開情報
『ナラタージュ』
10月7日(土)全国ロードショー
出演:松本潤、有村架純、坂口健太郎、大西礼芳、古舘佑太郎、神岡実希、駒木根隆介、金子大地、市川実日子、瀬戸康史
監督:行定勲
原作:島本理生(「ナラタージュ」角川文庫刊)
脚本:堀泉杏
音楽:めいなCo.
主題歌:「ナラタージュ」adieu(ソニー・ミュージックレコーズ)/作詞・作曲:野田洋次郎
配給:東宝=アスミック・エース
(c)2017「ナラタージュ」製作委員会