黒沢清監督はなぜパロディーを多用するのか? 『散歩する侵略者』に見る、主従関係からの解放
長澤まさみが演じる女は、人類がいまにも宇宙人に滅ぼされる事実を知ると、「嫌んなっちゃうナ」とつぶやく。そんな言い草があるだろうかと思ってしまうが、映画ファンであればピンとくるように、この箇所は小津安二郎監督作品を念頭に置いたパロディー的表現となっている。黒沢清監督は、ここで長澤まさみに小津映画の女優・杉村春子をイメージした演技を要求したことを明かしているが、おそらくこれは、杉村春子ならば宇宙人に対抗できるのではないかという、監督の勘なのであろう。この映画において、地球人が宇宙人を乗り越える瞬間があるのだとすれば、それは「愛」というよりは、パロディーより生まれた「嫌んなっちゃうナ」のシーン、一点に尽きるだろう。
黒沢清監督は、初期からジャン=リュック・ゴダールを思わせるパロディーを繰り返し、『トウキョウソナタ』や『ダゲレオタイプの女』で、小津安二郎監督や溝口健二監督を思わせる表現を行っている。またスティーヴン・スピルバーグ監督からの影響を公言している通り、『ドッペルゲンガー』では、ユースケ・サンタマリアが演じる男を、唐突に謎の巨大な玉に襲わせている意味不明のシーンがあるが、これは『レイダース/失われたアーク』の再現なのである。『リアル ~完全なる首長竜の日~』でも、『ジュラシック・パーク』を思わせるシーンがある。
『散歩する侵略者』は、いままでの黒沢監督作品に比べ、「物語」に回帰しようとする作品だ。それでもやはり、自ら積み上げたリアリティを打ち壊してまで、パロディを挿入してしまうのである。それは、彼が強い影響を受けた、ゴダールをはじめとする映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」の持つ実験性の継承や、助監督としてついた相米慎二監督の作風からの影響もあるだろう。そこにあるのは、多くの映画作品が囚われてきた、「映像を物語に従属させる」という主従関係からの解放である。それがベースにある以上、黒沢監督の作品において「物語」が前に出るということはあり得ないはずだ。物語を語るための映像というのは、ときに説明のために記号的になりがちで、どれだけ詳細で美しい映像を撮ったとしても、退屈なものとして映ってしまうことがある。映像にきらめきを取り戻すためには、あえて物語やテーマに奉仕することのない、または"し過ぎない"ようにする必要がある。例えば、押井守監督が長編作品の中盤で、まとまった内省的なイメージを挿入するというのも、これが理由であるはずだ。
私は十年以上前に、黒沢清監督の講演に足を運んだことがある。そこで最も驚いたのが、彼の映画に対する想いというものが、学生のように純真だということだった。とにかく話を聞いていると、「あんな映画みたいなことをやってみたいな、できたらいいな」みたいなことをずっと考えているようなのである。「えっ、この人、子どもなの…?」と、そのときは思ってしまったが、あとでよくよく考えてみると、業界の中で映画を撮り続け、いまだに学生のような感性で撮り続けているという事実というのは驚異的ではないだろうか。そして、そのような純真さを守っているからこそ、ここまで奇妙な感覚を宿した魅力的な作品をモノにできるのである。
黒沢清監督がパロディーを多用するというのは、いくつもの強烈な映画と出会った感動が彼の拠りどころとなっているからであろう。本作に強烈な「愛」が存在するのだとすれば、それは「映画への愛」に他ならない。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。
■公開情報
『散歩する侵略者』
全国公開中
監督:黒沢清
原作:前川知大「散歩する侵略者」
脚本:田中幸子、黒沢清
出演:長澤まさみ、松田龍平、高杉真宙、恒松祐里、長谷川博己ほか
製作:『散歩する侵略者』製作委員会
配給:松竹/日活
(c)2017『散歩する侵略者』製作委員会
公式サイト:sanpo-movie.jp