菊地成孔が語る、映画批評の倫理「1番やっちゃいけないのは、フェティッシュを持ち込むこと」
菊地成孔の新刊『菊地成孔の欧米休憩タイム』が、現在発売中だ。
英語圏(欧米国)以外、特にアジア圏の映画を対象としたリアルサウンド映画部の連載レビュー「菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜」の中から記事を厳選し、新たに加筆・修正の上で収録した同書。同連載の番外編として掲載され、Yahoo!ニュースなどのネットメディアやSNSで大きな議論を巻き起こした『ラ・ラ・ランド』評のほか、有料ブログマガジンの連載批評「TSUTAYAをやっつけろ」や、長らく書籍化されなかった伝説の連載コラム「都市の同一性障害」などを収録している。
リアルサウンド映画部では今回、発売後の反響を受けて、改めて菊地成孔本人にインタビュー。映画批評をはじめたきっかけから、その方法論について、さらには韓国映画の現在についてまで、本書の背景となる部分について話を聞いた。(編集部)
批評行為で1番やっちゃいけないのはフェティッシュを持ち込むこと
ーー今回の書籍で興味深かったのが、まえがきで菊地さんの批評手法が明かされていることでした。改めて、それがどのようなものなのか教えてください。
菊地:そんなに変わったことはしてません。まず、アナライズするってことですかね。僕はまあ、フロイディアンなので、可能な限り言葉で構造を分析しますが。映画っていうのは1つのスタティックな構造物ですよね。何分目に何が起こって、画面構成はこうで、という風に。
音楽、特にジャズなんかは、作曲作品に比べれば、毎回の演奏の可変幅が大きいですけど、どっちだってレコードになっちゃえばスタティックな構造ですよね。だから同じ時間芸術でも、演劇や演奏に比べると映画はレコードみたいな録音物みたいに、「再生」なんで、映画を観たら、とりあえずまず、構造を抜き取ります。最初に強調しますけど、これは「批評を書くときファースト」ですよ(笑)。個人的に鑑賞するときは、何も考えず観ますが、とはいえ、習い性で、ついつい構造を分析しながら観ちゃいますけどね。
こう言うと、一般的に「何も考えずに見れる状態が一番幸福だ」と思われがちですけど、個人的な経験則では、本当に優れた作品は、構造がスラスラ分析的に読み込めながらも、うわー、なんだこれ、という魔法が同時にかかっています。最近だと『ベイビー・ドライバー』がそうでしたね。アレ物凄い。
んでまあ、分析結果を評価セクションに回すっていう。この動きは、意識的かどうかは別として、批評家ではない方でもみなさんほぼほぼ同じことをしていると思います。
ただ、この段階で、分析力と評価力の程度はともかく、僕はこの段階で、というか、分析の段階から、気をつけてることがあって、それは個人的なフェティッシュを埒外に置くということです。僕がプロフェッショナルの批評行為で1番やっちゃいけないと思ってるのは、フェティッシュを持ち込むことなの。ここは強く意識的に、批評行為の倫理として気をつけています。そうしないと、気づかずに入ってきちゃうんで。
”萌えない”ってことなんです。帯には「私は幸福な観客ではない」って書いてありますが、”幸福な観客”っていうのは、観客として映画に対価を払ってるから、その中に自分のフェティッシュがあったらもう取り放題じゃないですか。『君の名は。』で先輩の浴衣からおっぱいが軽く見えるとか、『シン・ゴジラ』が長谷川博己さんのネクタイが緩んだら、とか、もう、今のプロダクツなんて、萌えのデザインだけで出来ているわけなんで。買う方には萌える権利があるというか、消費することがイコール萌えることになるぐらいまで株価が上がっちゃってますよね。『シン・ゴジラ』と『君の名は。』のテラヒットは、莫大な量の良質な萌えを、完璧にデザインした、ということですよね。もう、タイトルのドットや読点からしてすでにフェティッシュですよね。
これだけ情報が溢れて、サブカルだけでなくあらゆるものの価値に優劣がつけられなくなっている今、多くの人にとって自分が萌えるか萌えないかだけが強烈な基準になると思うんですね。ユーザーはそれでいいんですよ。今は、コメント文化ですから、ユーザーがそのままレビュワーに直結することが前提化されてますけど、本来は、クリティックの言葉とユーザーの言葉は全く別のものです。
萌えっていう現象に関しては、僕はそんなにオタク文化に詳しいわけじゃないから、「萌え」がどう使われていて、どういう変遷を経て、今はどういう風に言われてるのか、とか知らないけど。だから古い言葉をつかいますが、もし萌えといわれてるものが20世紀/昭和でいう「フェティッシュ」だったとした場合、として話を続けますが、作品を観るとフェティシズムが刺激されたりされなかったりしますね。つまり、全然ストーリーと関係ないんだけどどうしても萌えちゃうシーンがある、ということが起こりうるし、逆にそんなシーンはまったくないんだけど感動した、ってことも起こると思うんですよ。つまり全ての鑑賞者はフェチ持ち、原理的にフェチ持ちじゃない人はいないから、何かに萌えるわけ。
昔のフェティシズムっていうのは脚とかケツとか性的成長と繋がってて、それはフェティシズムの牧歌的な時代だけど、今の萌えっていうのは何に萌えるかわかったもんじゃない。戦車に萌えるとかさ、美少女に萌えるとかさ、声に萌えるとかさ、それを全部合わせた、というデザイン自体に萌えるとか、まあ、ガルパンのことですけどね(笑)、特に意味はないです。一例というか。また、女の人は車庫入れに萌えるとか。女性だってフェティッシュで動いてますよね。
ユーザーが正直に「いいね」っていうものは、自分にとっての個人的な萌えだと思うし、それで良いわけです。だから批評行為をするときに萌えを1ミリたりとも入れない状態を作るのは、僕の倫理、エシックであり、理念、イデーですね。つまり完全に守れる保証はない。自分で頑張るわけ(笑)。
自分の好きなシーンが入ってる映画の、萌えるシーンだけなら動画サイトでもう、観きれないぐらいの市場みたいになってる。市場にも毎日行きます。僕だってユーザーの一人ですし。市場で熱心に買い物するだけじゃなくて、手間暇かけて3次元で実行したりするけれども(笑)、まあどっちにしても、ですね、僕にとってそれは、1日働いたから風呂あがりにアイスバーを食おう、これは生きるうちの楽しみだ、一生懸命働いた自分へのご褒美だと(笑)、大体そういう位置にいます。フェティッシュの位置は人それぞれでしょうから。
さっきも言いましたけど、今の若い人たち、というかSNSユーザーの多くが「萌えるからこの作品は良い」ってしちゃってると思うんですよ。批評家の言葉とユーザーの言葉が液状化している。現状に適応すればそれは単に最新の状況ですが、あくまで僕個人は、としますが、現状に不適応です。適応障害と言っても良い(笑)。
でも、液状化させている張本人の一人であるユーザーの多くも、批評家にはそうして欲しい、と思っている筈です。批評家や著名人が個人的な感情で悪馬したり絶賛したりすると拒絶反応が出ますよね。僕は、映画批評家としては『セッション』と『ラ・ラ・ランド』を悪く言った人、みたいなクソみたいな風評に飲まれちゃってますけど(笑)、あれとて、個人的なフェティッシュだけじゃねえかと思う人は多いと思いますが、全然そんなことしてません。読む人が読めばわかります。
なので、僕の批評倫理としては、まず自分が何に萌えるのかっていうのは自分が一番よくわかってるわけだから、その喜びに任せて評価はしないと。ここは微妙で、「自分でわかっていないフェティッシュ」もあるから(笑)、面倒なんですけど、少なくとも前者は遮断すべきです。
こうなると、一番困るのは、非常に優れた作品が、僕の個人的なフェティッシュにドンピシャだという場合ですね(笑)。プロとアマのキメラの状態に自分が追いやられる(笑)。まあ、それでも頑張るわけです。幸福な観客じゃないですよ(笑)。
というわけで、少なくともこの連載で心がけたのは、自分のフェティッシュを出さないでどこまで分析に対する評価が出せるかっていうことです。『セッション』みたいな映画がバーンって当たってしまうことありますよね。僕はそのことに関して、頭の悪い人々から「ジャズの考証がひどいから酷評した」っていう風に、文字どおりバカでもわかるような、わかりやすい落とし込みをされてしまって、たしかに一方で『セッション』のジャズ考証はひどいんだけど、それ以前に『セッション』は構造がダメなんです。ワンパン喰らわせた後が雑だよねって。そのワンパンが要するにフェティッシュであって、つまり頭をツルツルに剃った、すごく怖い、ピチピチの黒い服を着た先生にめちゃめちゃに往復ビンタされたい、あるいはされたくない、といったフェティッシュによって興奮しちゃってる人たちが『セッション』を「やばい映画」って言ってること自体がダメだなっていう。それに萌える人はそれで構わないし、萌えは黄金というか、その人の神様だから、構造がダメだから『セッション』はダメ、って言われると、自分の神様を汚された気になると思うんですけど、僕はユーザーの神を殺そうなんて思ったことはないです。神への依存が強すぎる時代になっちゃってるだけで。
フェティッシュで喜ばせるんだったら、世の中にフェチ産業なんか腐る程あるわけだから、わざわざ映画一本見なくていいわけですよね。ただ、フェティッシュの話は底なし沼で、「それ用」では萌えない、映画の中にフェティッシュが1つの自分へのギフトとして散りばめられているのが、アレが良いんだよねえ(笑)とか、どんどんグルメになっちゃう(笑)。だからこそ切り落とさないと批評にならないですね。僕にとっては。
だから映画を観るたび、そのためにはどうしたらいいかって、連載のたびに切り口を考えて、こういう見方で見たら面白いとか、こういう風に考えたんだとか。たとえばいま漫画原作の映画が多いけど、自分は漫画を読まないから、映画を観て原作が読みたくなったか読みたくなかったか、っていう軸で考えてみようとか。それが僕の批評のスタイルといってもいいかもしれないです。
ーー菊地さんが映画批評を始めたきっかけは何だったんですか?
菊地:きっかけは、そんなにドラマティックなものではないです。1冊目の映画批評本『ユングのサウンドトラック』にも書いてありますけど、家が歓楽街にあって、飯屋で、実家の両脇が映画館だったんですよ。だから映画ファンである以前に、映画館ファンというか。赤ん坊の僕が泣いてぐずるとお客さんに迷惑だから、母親が背中に背負って映画館に連れて行ってくれる。ご近所さんということで、フリーパスで入れるんですね。映画館に連れていかれると僕は泣き止んだので、小さい頃、それこそ本当に覚えてないような3歳児以前から、相当な回数、上映中の映画館に行ってたはずです。物心ついてからは映画館には、家の出前のバイト行ってたので、映写室に天丼届けたり、映画館のバックヤードを見てたんですよね。
だから映画はもともとめちゃめちゃ好き、映画館も好きだし、映画そのものも好きだし。思い出も含めて、映画というものに対してものすごい愛情があります。そのうちエッセイストになったので、好きな映画の話を書きますよね。そうしてるうちに、趣味が高じて。映画評論家になってやる、とかいう風に構えてたわけではないです。格闘技の批評本も2冊出てますし、ファッション批評も一冊出してますけど、あれももともと好きだったからそれについてブログに書いたりなんかしているうちに仕事になっちゃって。まあまだ出してないですけれど、グルメ本みたいなものもたぶん勢いがあれば出ちゃう。僕が趣味でやってることがみんな、そのことに対する批評になっちゃって、それが仕事になっちゃって、という感じですよね。その度にフェティッシュを自分から敢えて引き剥がすの(笑)。批評は幸福な行為ではないですよ(笑)。
『菊地成孔の欧米休憩タイム』の中で言うと『ひと夏のファンタジア』とか、なるべくフェティッシュから離れようと思ってるんだけど離れられないぐらい感動してしまった、っていう時はものすごいエモくなる。それはそれで訴求すると思うんですけれど、基本的にはクールでいたいとは思ってます。クール且つ、つまらなくないっていう風に。
ーー『菊地成孔の欧米休憩タイム』の連載で、苦戦した作品はありましたか?
菊地:ある。どうやって書こうかなっていう。1番苦しかったのが『隻眼の虎』です。単に、面白くなかったという意味で苦しかったんだけど(笑)。だから『レヴェナント: 蘇えりし者』で使われた、トラを動かすCGのソフトと、同じものが使われてる。という基軸を立てて書いた。(参考:菊地成孔の『隻眼の虎』評:おそらく同じソフトによって『レヴェナント』のヒグマと全く同じ動きをする朝鮮虎)
あと、そこそこ面白いけど書くのが苦しかったっていう意味では『アイアムアヒーロー』ですね。ゾンビ映画とか全くで、ロメロの『ゾンビ』しか知らないので、この作品はマニアから見るとどうなのかとか全くわからなかったし、原作も読んでないからどのぐらい忠実に映画化してるのかっていうのも全くわからなかった。だから、作品そのものの評価より、「原作ものとは?」っていう話にするしかなかった。(参考:菊地成孔の『アイアムアヒーロー』評:「原作を読まなきゃな」と思わせるんだけど、それが失敗なのか成功なのか誰か教えて。)