なぜ『ダンケルク』は“薄味”に感じるのか? ノーラン監督の作家性と“戦争映画”としての評価を考察
クライマックスは、陸、海、空それぞれの主人公たちが一堂に会し、それぞれの時間が一致する浜辺での乱戦シーンである。スピットファイアのコクピットから望む渚を俯瞰した光景は、本作の極めつけのスペクタクルとなっている。
異なる時間が映画の中でひとつに交差するという意味では、D・W・グリフィス監督の『イントレランス』や、死神に狙われた人々の3つのエピソードを同期させる、ドイツの名匠フリッツ・ラング監督の『死滅の谷』を思い起こさせる。そこで描かれるエピソードというのは直接的に交わることはないが、観客の体験としては、クライマックスへ向けて一致するように、それぞれの場面が組み替えられ編集されている。ノーラン監督は、そのように異なる話を一点にぶつけることで、ダイナミズムとカタルシスを発生させるという、映画初期の無声映画から生み出されたスペクタクル手法を蘇らせようとしているように感じられる。その試みは、できるだけセリフを排し、映像によって物語を描くという、無声映画のような手法を見ても明らかである。
しかし、なぜノーラン監督は、あえて無声映画の演出に本作を立ち戻らせようとするのだろうか。それはおそらく、映画というものが、かつて持っていた価値を再びつかみだそうとしているからだろう。無声映画時代、台詞やナレーションなど言語によって物語の説明を加えるためには、いったん字幕専用の画面を挿入し、映像の時間的な流れを分断せねばならなかった。この手法は観客の集中を途切れさせ、ストレスを与えるため、当時は出来る限り文字には頼らず、映像だけで様々なものを表現することに力が注がれていた。このような不自由さというのは、結果的に映像表現を高度化することにつながったといえよう。
その後、映画に音声を加えることが可能になってからは、映像における説明上の不備を音声によって補えるようになった。そのおかげで大げさな役者のボディーランゲージが不要になり、より自然な演技ができるという利点があった反面、「映像で物語を伝える」という、それまでの映画が持っていた役割は小さくなっていったといえる。ここでノーラン監督が到達したいのは懐古趣味ではなく、現在の映画が失ってしまった根源的な価値なのである。ノーラン監督の過去作を追っていけば、作品がこのような先鋭化を遂げるのは必然的なことだと理解できるだろう。
そこで映像をより価値あるものにするためにノーラン監督が行っているのが、アナログフィルムの使用と「本物志向」の映画作りである。デジタルカメラやCG(コンピューター・グラフィックス)全盛の時代に、その簡便さには極力頼らず、実写の映像にこだわるという姿勢と、巨大なIMAXカメラに代表される大掛かりな機器によって、本物から醸し出されるリアリティや臨場感を、フィルムに焼き付けるのである。
ノーラン監督は過去に、映画に登場する広大なトウモロコシ畑を本当に作ったり、巨大なトラックを実際にひっくり返したりしている。本作では、本物の戦闘機や船を使い、空中戦では飛行機の一部にIMAXカメラを固定して実際に空を飛行しているシーンが撮影されている。それは、「究極のリアリティは“リアル”である」という、一種の信仰からくる無謀な試みである。この一点において、ノーラン監督は現在、唯一無二の存在感を映画界で発揮できているのだ。その表現は映画ならではのリッチさやイベント性にもつながっており、それを求めるファンの熱狂に応えることで映画文化の存続に貢献しているといえるだろう。