高杉真宙らキャストとの共同生活も……『逆光の頃』Pが語る、“粘り”の映画作り

『逆光の頃』Pインタビュー

 書籍『PRODUCERS' THINKING』も好評発売中。スペースシャワーTVの高根順次プロデューサーによるインタビュー連載「PRODUCERS' THINKING」第二回では、小林啓一監督がタナカカツキによる同名人気コミックを実写化した青春映画『逆光の頃』の原田博志プロデューサーにインタビュー。

高根順次『PRODUCERS' THINKING』

 原田氏は、小林監督とともに制作会社・マイケルギオン株式会社を立ち上げ、2012年には『ももいろそらを』を、2014年には『ぼんとリンちゃん』を、監督とともに世に送り出してきた。両作はインディーズ作品ながら、数々の映画祭で高い評価を受け、小林監督とマイケルギオンの名を映画界に知らしめた。

 三本目の作品となる『逆光の頃』では、初めての漫画原作に挑戦。監督がかねてより大ファンであるというタナカカツキの原作より、「僕は歪んだ瓦の上で」「銀河系星電気」「金の糸」の3編とオリジナル部分を映像化。さらに、主演には高杉真宙と葵わかなという、気鋭の若手俳優を迎えたことも話題となった。

 旬のキャストと長期の契約を結び、共同生活まで営んで作り上げたというその制作現場の裏側と、インディペンデント映画についての独自の考え方、そしてプロデューサー業ひいては映画制作の醍醐味についてまで、骨身に染みる話をたっぷりと語ってもらった。(編集部)

できることは手間を惜しまずになんでもやる

(c)タナカカツキ/講談社・2017東映ビデオ/マイケルギオン (c)原作/タナカカツキ「逆光の頃」(講談社「モーニングKC」所載)

――『逆光の頃』の時は、ロケハンに1年ぐらいかけて、原田さんはキャストと共同生活までしたとか。普通ではなかなかできない作り方だと思います。

原田:僕はなにか特別なことができるわけではないから、だからこそ、できることは手間を惜しまずになんでもやるつもりでいるんですよ。それは小林啓一監督の姿勢からも学んでいることで、彼自身、自らカメラもやれば編集もやる。キャストととことん付き合うのも、その考え方の延長にあるものです。映画は、楽しては作れないと思っていて。ロケハンの許可を取るのも、スタッフが相手の家に直接行って、ひたすら粘って許可をもらったりとか。監督も妥協せずに粘って撮ってるんだから、僕らも粘らないといけないですね。そのやり方になるのは、僕らが7~8人で作っているからというのもありますが。少ない制作費で良いものを作ろうと思ったら、人数を減らして、その分長く時間をかけて撮るしかないかなって。

――でも、『逆光の頃』の高杉真宙さんと葵わかなさんは今、かなり人気が出てきている俳優ですよね。よく長期の拘束ができましたね。

原田:事務所の方にとっては大変だったと思います。結局のところ、キャストやマネージャーと話し合って、納得してもらうしかありません。ただ、良い作品を作りたいという強い意識を持ったキャストやマネージャーはいますので、そういう方にお願いするという感じです。それで、ビジネスホテルではなく、ちゃんとしたホテルを取ったりして、一緒にご飯を食べて、たくさん話し合うんです。『ももいろそらを』の時なんかは、リハーサル含めたら半年ぐらいやっていると思います。少人数で、みんな汗だくになってやっていますね。キャストにまで裏方仕事を手伝ってもらうような状況で(笑)。もちろん、休んでいていいよっていうのですが、みんな良い子だから「ぜんぜんやりますよ、大丈夫です」って、一緒にやってくれるんです。

――周囲の方の協力を得るのに、なにかコツはありますか?

原田:僕らの場合は、バックボーンがなにもないので、まずはしっかりした台本を作ることには力を入れています。『逆光の頃』もそうだし、前作の『ぼんとリンちゃん』もそうだし、前々作の『ももいろそらを』もそうなんですけれど、とにかく想いを詰め込んだ台本を見てもらうしかない。そのために、台本の段階でしっかり製本して、直接手渡すようにしています。メールをただポンと送っても、読んでくれないことも多いですけれど、しっかり作った台本だと読んでくれる確率が上がります。

原田博志プロデューサー

――なるほど。そもそも原田さんはなぜ映画業界に入ろうと思ったのでしょう。

原田:大学で3年生の終わりぐらいに、神田にあった三省堂で映像クリエイターの仕事についての本を読んだのが、この仕事に興味を持ったきっかけです。一本の映画を制作するのに50~100人ものスタッフが携わると知って、それなら自分のような凡人でも潜り込めるんじゃないかって考えたんですよ(笑)。その本には映像塾というスクールの願書も付いていたので、とりあえずそこにも通うことにしました。そこで知り合った2つ上の先輩が白石和彌監督で、彼は当時、若松プロという制作会社に出入りしていたのですが、僕は当時実家住まいで車を持っていたので、よく運転手として一緒に現場に行っていたんです。「原田、車出せ! おっぱい見れるぞ」なんて誘われて、ピンク映画の中村幻児監督の現場でちょこちょこ手伝いをしていました。その後、白石監督の紹介で、車が運転できるという理由から広末涼子主演の『秘密』という映画の現場に携わらせていただきました。

――もともと映画がすごく好きだったんですか?

原田:好きではありましたね。でも、僕が一番好きだったのはジャッキー・チェンで、ほかには『ランボー』とか『グーニーズ』とか、要はスピルバーグやジョージ・ルーカスなどの娯楽作ばかりに親しんでいたんですよ。だから、映画のスクールに通い始めたときはバカにされたものですよ。スタンリー・キューブリックも知らなければ、コッポラも知らないし、黒沢明も、小津安二郎も、溝口健二も知らなかったわけですから。「お前は何も観ていないな」って。でも、当時は新宿に大きなTSUTAYAがあって、良い作品がたくさん借りられたんです。それで毎晩貪るように観て、ノートに感想を書くということをやり始めたのですが、邦画にも本当に素晴らしい作品がたくさんあることに驚きました。一番感心したのは、溝口健二の『祇園の姉妹』。一部のフィルムが失われていて、69分しか観れないし、音も悪ければ画質も悪くて、前のめりにならないと観ることができない。でも、すごく面白いんですよ。

――スクールで映画の魅力に改めて目覚めたわけですね。プロデューサーになったきっかけは?

原田:『秘密』のスタッフルームではほかの作品も作っていて、隣に藤井浩明さんというプロデューサーの方がいたんです。で、あるとき藤井さんがご飯に連れて行ってくれて、お話したら「次の作品に呼んであげるよ」って仰ってくれて。『ムルデカ17805』という戦争映画だったんですけれど、そこで1年半くらい、プロデューサーの仕事を教わったのが、大事な経験になりました。

――その後、様々な映画の現場を経て、2010年に「世界で通用するインデペンデント映画の製作を目指して」マイケルギオンを立ち上げると。

原田:自分で言うのも何ですが、過去にはすごいことを言っていましたね(笑)。会社を立ち上げたきっかけは、スタジオワン(現・C & I entertainment)という制作会社で契約社員をしていたときに、小林監督と知り合って、一緒にVシネをやって意気投合したのが始まりです。僕はその会社を辞めた後、業界からも足を洗おうと考えていたんですけれど、小林監督に相談したら、「仕事はあげるよ」って言ってくれて、ネット用の短い動画とかを作って食いつないでいました。その後、後輩が立ち上げた会社の手伝いとかをしていたら、小林さんから「僕と一緒に会社やりませんか?」ってそそのかされて(笑)。うだうだ映画の文句を言っていても始まらないし、じゃあ一回、映画を一緒に作ってみて、それでダメなら業界を辞めようと。それで覚悟を決めたんですね。

――マイケルギオンという社名の由来は?

原田:舞妓と祇園と掛け合わせた造語です。日本映画の発祥は京都だから、いずれ映画をヒットさせて、祇園で舞妓遊びをしようっていう意味ですね(笑)。あと、検索したときに一番上にヒットするようにしたかったという意図もあります。また、マイケルギオンはハリウッドにいる架空の凄腕プロデューサーという設定もあって、僕ら自身が「マイケルギオンだったらどうするか?」と問いかけながら仕事をしています。

――それで最初に『ももいろそらを』を製作すると。第24回東京国際映画祭の「日本映画・ある視点」部門で最優秀作品賞を取って、サンダンス映画祭にも出品するなど、かなり話題となりました。完成当初から手応えはありましたか?

原田:もちろん、監督がサンダンスに行けたのは良かったですけれど、僕の気持ち的にはそれほど「やったぞ!」という気持ちはなくて。というのも公開が決まらないし、ビデオが出るかもわからない状態で、どちらかというと不安ばかりでした。ちょうど完成した矢先に大震災があって、ギリギリのタイミングでカンヌ国際映画祭にもエントリーしたんですけれど、やっぱりダメで。そこからが長かったですね。どこの映画祭にも引っかからなくて、東京国際映画祭でもコンペ部門を目指していたのに、ある視点部門でしたから。とにかく、僕らはいかにして世の中に出していくかということについては、まったくの素人だったので、本当に闇雲の行き当たりばったりです。

――ただ、世界を目指せる作品であるという自信はあった?

原田:そうですね。ただ、やっぱり批判は監督以上に僕の耳に入ってきますから、凹みましたよ。でも、その批判があってこそ、「じゃあ映画祭に出してやる!」ってモチベーションに繋がったので、それはそれで必要なことだったと思います。

――次作の『ぼんとリンちゃん』も結構、話題になりましたよね。

原田:うーん、どうだろう(笑)。海外の映画祭はぜんぜんダメで、字幕がいけないのかな、とか、ちょっと喋りすぎたのかな、とか、いろいろ不安に思っていた作品で、でもギリギリのタイミングでようやく横浜映画祭の新人賞をもらいました。また、小林監督が映画監督協会新人賞を受賞することができたので、そこでようやくホッとしたという感じです。

――『ぼんとリンちゃん』はパンフレットも豪華で素敵でした。あれも監督のアイデアですか?

原田:はい、監督のアイデアです。僕の仕事の基本はやはり、いかに小林監督のアイデアを具現化するかで、実際にできることとできないことを選り分けていくことなんですよ。もちろん、意見がぶつかることもありますけれど、小林監督は黒澤明さんみたいに、まったくプロデューサーの言うことを聞かないということはぜんぜんないので、ちゃんと話し合って落としどころを探っています。小林監督が役者から信頼されるのも、そういう感情のキャッチボールがちゃんとできるからなんですよね。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる