綾野剛×村上虹郎、魂のぶつかり合いの神々しさ 『武曲 MUKOKU』が伝える武士道精神
昔の侍映画を観ていると、その役者のシュッとした独特の佇まいに、なんてかっこいいのだろうかと一瞬にして心を奪われてしまうことがよくある。無駄がなく、骨太。彼らにはそんな表現が似合う。己と真剣に向き合う。武士道、侍スピリット。これぞ日本の男!と思わされるような、きりっとしたかっこよさ。映画『武曲 MUKOKU』にも同じ精神性を感じる。日本人として襟を正されるようで、そこに古き良き日本人の神髄を見る。生と死、静と動。本気で生きろ! そんな言葉も響いて来る。
剣道で一目置かれる存在であった矢田部研吾(綾野剛)は、警察官である父(小林薫)によって導かれた剣の道を、ある一件から断とうとしていた。酒浸りで自堕落な生活を送る研吾の元に送り込まれてくる、剣道に天性の才能を持った高校生、羽田融(村上虹郎)。生か死か、同じトラウマを抱えた二つの魂が、剣道を通してぶつかり合う。
人間としての自分の弱さ。相手を斬るための闘いか、己を斬るための闘いか。二人の台風の中での決闘シーンは、それぞれの己と向き合う痛みの中で咲く、生としてのパッション、生の煌めきを魅せ、刹那的でありながらもこの上なく美しい。死というものが己の中で現実味を帯びた時、初めて人の精神は生というものに直結するものなのかもしれない。それを物語るかの如く、二人は闘う。
闘いを終えた羽田が絞り出すように放った言葉。それはまるでトラウマという得体の知れない魔物から解き放たれた魂が発した言葉のようで、印象的に私の中で響いた。現実の闘いとしては敗者であったかもしれない彼の口から、なぜこんなにも美しい言葉がこぼれ出るのだろうか。その瞬間、彼が神々しく見えた。そして、それはきっと彼が何かを解毒し、己との闘いに勝ったという証なのだと感じた。もしかしたら彼は剣道に出会う前、ラップのリリック作りに夢中になっていた頃から、トラウマの波に溺れそうになりながらそれを克服できる術を、ずっと探していたのかもしれない。
剣道の剣は、相手に向ける剣であり、自分に向けられた剣でもある。相手を打ち負かすために剣を振り下ろすのではなく、己に打ち勝つために剣を振り下ろす。武士道精神の育成を理念としてきた剣道の教えである。本気で己の精神と向き合う、そんな自分を追い詰めるような厳しさは、現代では時代錯誤な生き方だと言われるのかもしれない。でも今だからこそ、そんな生きざまが眩しく見える。
運命に翻弄される研吾と、父の秘められた想い。剣道の教えは人生になぞらえるほど深い。研吾を演じた綾野剛氏、肉体、精神共に無駄なものを一切削ぎ落し、全身全霊を傾けるその姿が、修行僧のように私には見えた。また、融を演じた村上虹郎氏は水の中を自由に泳ぐ魚のようだった。