渡邉大輔の『PARKS パークス』評:「場」の構造を含めて「作品」にする野心作

渡邉大輔の『PARKS パークス』評

瀬田監督が『PARKS パークス』で行った試み

 以上のような『PARKS パークス』の趣向は、これまでの瀬田の仕事に注目してきた観客ならば気がつくように、明らかに『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』以降、ここ数年の瀬田が取り組んできた『5windows』シリーズともいうべき一連のプロジェクトの延長上にあります(映画のラストで、ハルが井の頭線の車両から公園の純を見下ろすショットも『5windows』を髣髴とさせます)。これは、『5windows』(11)からはじまる一連の連作で、『PARKS パークス』にも出演している染谷将太や長尾寧音が役者として参加している実験的な短編作品です。

 たとえば、11年の第1作は、「シネマジャック&ベティ」というミニシアターのある横浜・黄金町にある川沿いの舗道と橋を主な舞台に、4人の若い男女がすれ違う一時を切りとった物語です。翌年に『5windows 劇場上映版』(12)として編集されたバージョンではひと続きになった物語として観ることができる映画なのですが、もともとの第1作はいささか変わった趣向で上映されました。

 じつはこの短編は、それぞれの人物の同一の時間を捉えたシークエンスごとに、4つの断片にわかれています。第1作では、それら4つの断片がまさに舞台となった黄金町の別々の場所で屋外上映され、観客は必然的に各断片を自由な順序で「周遊」(まさに瀬田的なモティーフです)して観ることができます。そして最後に、4つの物語がひとつに邂逅するシークエンスを、現地の映画館で上映というものです。あるいは、第7回恵比寿映像祭のために制作された『5windows eb/is』(15)でも、恵比寿ガーデンプレイスのそこここに大小のスクリーンが設置され、同じ場所で撮影された断片的なシークエンスが上映されました。

  何にせよ、いってみれば、『5Windows』シリーズとは、確固とした輪郭を伴った「作品」として設計されることを、あらかじめ構造として拒み、そのスクリーンが設置された環境とのフィードバックによって成立する映画なのです。この「作品」は、バラバラにモジュール化された映像/物語の断片が、それが偏在する黄金町なり恵比寿なりといった特定の「場」(プラットフォーム)のうえで上映され、それらをインタラクティブなコミュニケーションをつうじて観賞してゆく観客たちの介入によってそのつど、自生的に立ちあげられてゆく「プロセス」それ自体として束の間に存在するものです。

 しかもその作品が、まさに撮影の舞台となった場所である黄金町や恵比寿で上映されることによって、午後の日のある一瞬をたがいにささやかな目配せを送りながら通りすぎる登場人物たちのいる作品世界と、それを観る観客たちのいる、いま・ここの現実の世界とが陰画のごとくあいまいに重なりあいながら多層的に戯れる独特の印象を作りだしてもいます。作中でゆるやかにすれ違う人物たちと、その外側でやはり彼らの物語に気散じ的に出会うことになる観客たちの姿を、いわば「リツイート」や「いいね!」のように重ねあわせることそのものが、瀬田の試みだったといえるでしょう。この意味で、『5windows』シリーズは、たとえば濱口竜介の『親密さ』(12)や富田克也の『バンコクナイツ』(17)などと同様、むしろ昨今の現代アートにおけるメディア・インスタレーションやリレーショナル・アートのコンセプトにも接近することになります(実際に、『PARKS パークス』のような「ご当地映画」と藤田直哉などが提起する「地域アート」の問題とはきわめて近いところにあるでしょう)。

 ともあれ、『PARKS パークス』が井の頭公園と取り結んでいる関係性が、『5windows』シリーズと通底していることは明らかでしょう。そして、こうした映画を取り巻く場所性=環境の多層性、あるいは固有性(サイト・スペシフィシティ)の前景化は、さらにひるがえって映画のなかの表現にも表れてくることになります。

 たとえば、この作品では2017年の現代にいるハルや純たちと、60年代に生きていた晋平と佐知子のカップルが幾度も井の頭公園のなかで交錯します。「いま・ここ」の現実空間に複数の時空やリアリティが多層的に重なりあうという、こうしたいわゆる「拡張現実的」な世界は――2016年にはARアプリの「Pokémon GO」も注目を集めましたが――片渕須直監督の『この世界の片隅に』(16)から神山健治監督の『ひるね姫~知らないワタシの物語~』(17)まで、これも最近の映画によく見られる趣向ですが、『PARKS パークス』もまた、奇しくも同様の拡張現実的なリアリティを物語世界に導入しているのです。それはまた、かたや登場人物たちが用いるSNSの表現にも窺われます。近年の映画ではSNSをいかに映画世界に演出として導入するかが問われているといえるでしょうが、『PARKS パークス』では、トキオの使うSNS(おそらくTwitter)のインターフェイスがしばしば画面左下に映像と重ねあわされて写されます。これは純のナレーションと同様、作中では一種の説明ナレーションの役割を果たしているのですが、ここで重要なのは、現実のSNSと同様、ここでのトキオの「つぶやき」はごく私的な内言であると同時に、パブリックなネット空間(そして観客たちが見つめるスクリーン)でも見られるアナウンスにもなっているわけで、これもまた、メディア的な表象として叙述の多層性を図らずも体現しているわけです。これらが、『5windows』シリーズの場所性やリアリティの多層性というモティーフを受け継いでいることは間違いありません。以上のように、『PARKS パークス』は今日の映画文化のパラダイムとも多種多様に呼応しつつ、しかしまぎれもなく瀬田ならではの世界観も展開される作品になっているのです。

 あらためていえば、瀬田は、劇場用映画作品のほか、ウェブドラマやテレビドラマ、あるいはミュージック・ビデオの演出まで、じつに多彩なジャンルを手掛ける、デジタル世代にふさわしいみずみずしい感性と技量をもった俊英です。新作『PARKS パークス』は、そんな瀬田らしい意欲的な試みが詰まった愛すべき現代的な映画になっています。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部助教。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■映画情報
『PARKS パークス』
4月22日(土)よりテアトル新宿、4月29日(土)より吉祥寺オデヲンにて公開
出演:橋本愛、永野芽郁、染谷将太、石橋静河、森岡龍、佐野史郎、柾木玲弥、長尾寧音、岡部尚、米本来輝、黒田大輔、嶺豪一、原扶貴子、斉藤陽一郎、麻田浩、谷口雄、池上加奈恵、吉木諒祐、井手健介、澤部渡(スカート)、北里彰久(Alfred Beach Sandal)、シャムキャッツ、高田漣
監督・脚本・編集:瀬田なつき
音楽監修:トクマルシューゴ
劇中歌:PARK MUSIC ALL STARS「PARK MUSIC」
エンディングテーマ:相対性理論「弁天様はスピリチュア」
製作:本田プロモーションBAUS
制作プロダクション:オフィス・シロウズ
配給:boid
2017年/日本/カラー/118分/シネマスコープ/5.1ch
(c)2017本田プロモーションBAUS
公式サイト:http://www.parks100.jp/

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