荻野洋一の『恋妻家宮本』評:これが観客の求めるリマリッジ・コメディなのだろうか
夫婦がうまく行く、行かないは、天のいかなる配剤なのだろうか? いやいや、それは天のせいではなく、当事者たちの思いやり、知恵、我慢、あるいは諦念、はたまた相手の欠点への賢明な無関心、などといったさまざまな自助努力によって、それは死ぬまで続けることができもしようし、途中で「別れた方がよい」という判断に落ち着くという場合もある。そしてその是々非々はどちらが良くて、どちらが悪いということもない。本人たちが、さまざまな状況に鑑みて決めていくべき事柄である。
阿部寛、天海祐希共演の映画『恋妻家宮本』は、「その夫婦は、離婚届から始まった。」というコピーでプロモートされてきた。妻(天海祐希)から離婚届を突きつけられ、狼狽する夫(阿部寛)とくれば、これはハリウッドが何十年も前から作ってきたマリッジ・コメディ(結婚喜劇)、あるいはディヴォース・コメディ(離婚喜劇)の現代日本版ということになるだろう。目新しい題材ではない。であるがゆえに、このサブジャンルは演出の妙味、演技のうま味が大きく問われる。なぜなら物語にさしてバリエーションがないからである。
そりの合わない男女がいさかいの果てになぜか愛し合って、終わってみれば、いっきに結婚まで行ってしまうというマリッジ・コメディは、ハリウッドの恋愛喜劇の原型的なスタイルである。逆に、かつては愛し合った夫婦が揉めに揉めて、新しい相手を見つけて人生をやり直したりするディヴォース・コメディは、あまりクラシックな形とは言えず、こういうドライかつ冷笑的な顚末は、ウディ・アレンの映画にこそふさわしい。アレン映画にあっては、浮気し合った男女が愛想を尽かして別れ、絶望しかけたところに、もうちょっとお手軽な相手が見つかって、性懲りもない恋が始まったりする。
マリッジ・コメディとディヴォース・コメディの後日譚に、じつはリマリッジ・コメディ(再婚喜劇)という重要なサブジャンルがある。リマリッジ・コメディはハワード・ホークス監督、ジョン・バリモア、キャロル・ロンバート主演の不朽の名作『特急二十世紀』(1934)に代表される。別れたはずのカップルが、騒々しいやり取りの果てに、なぜか再びくっついてしまう。ここまでくると、恋愛喜劇のロマンティシズムはぐっと後景に退き、カップル間の闘争とエゴがある種グロテスクに露呈し、顚末を語る語り口、演出の妙味をしゃぶり尽くすように見ていくというような、きわめて映画の裸形に近づいていくだろう。別れたカップルがヨリを戻すなどという事態は、現実社会のそれよりも映画の中のストーリー・テリングに属するものである。
であるならば、「その夫婦は、離婚届から始まった。」という宣伝文句で始まる『恋妻家宮本』は、言ってみればリマリッジ・コメディの一変種ということになる。ベッドルームの書棚から学生時代の愛読書、志賀直哉の『暗夜行路』をふと取り出した夫の阿部寛は、ページのあいだに妻の署名入りの離婚届を発見してしまう。これを見た阿部寛のリアクションはもうバタバタ喜劇のそれで、この作品が少なくとも、ウディ・アレン調のシニカルなディヴォース・コメディに達することはない、というのがたちどころに分かるだろう。
ということは、阿部寛と天海祐希の夫婦が、離婚危機におののき、滑稽な慌てぶりを見せ、落胆を重ね、また思い直したりしながら、ここ一発での「挽回的な行動」を繰り出すことによって、危機を脱するまでの物語であろう、というのがあからさまに分かる。だからこの映画は、離婚届が『暗夜行路』のページのあいだからこぼれ落ちて以降、リコンシリエーション(和解)までのさまざまな有象無象を、いかにしてスマートに、また面白可笑しく演出できるかにかかっている。
本作で採用した、阿部寛のモノローグはどうだろうか? 彼の狼狽ぶりやら不安、自己嫌悪、自己吐露などの有象無象を、これによってかなり簡単に処理している。しかし、この手法は良いことばかりではない。あまりにも主人公の心情を阿部寛のヴォイスオフで手軽に聴くことができてしまうため、私たち観客は、想像する余地を奪われてしまった。まるで田舎の三文芝居のような説明モノローグを、なぜ本作は採用してしまったのか?
その答えは簡単だ。ようするにこの作品がやっぱり田舎の三文芝居だからである。いい意味でも悪い意味でもそうであって、田舎の三文芝居をあえて志向する選択肢は、あってしかるべきである。作り手サイドの意図としては、この作品をハリウッド・クラシックスのような軽妙洒脱かつソフィスティケイテッドされた恋愛喜劇に仕立てようなどとはつゆ思っていない。そんな贅沢品を現代日本の観客が求めてはいまいという諦念(なのか、例のマーケティング的発想なのかは分からないが)が、彼ら作り手サイドを支配しているのが、手に取るようにして分かる。
主人公の中学教師が料理教室に通って、キッチンでの腕前を上達させるにしたがい、妻が張り合いを失うという描写や、その料理の腕前を活用して、生徒の精神的危機を救い上げたりする描写は、この映画の中でうまく行っている部分である。ぼけっとして精気と情熱に乏しい思われた主人公が、じつは情熱と誠実さの持ち主であることを、十全に分からせるハートウォーミングなパートとして機能しているからである。
ただし、夫が料理の腕前を上げるたびに妻のほうは元気がなくなっていくという設定は、いかにも保守的で男尊女卑的な描き方だ。「いや、格好をつけても仕方がない。これが日本の大半の夫婦像なのだ」と言わんばかりに、この映画にひたすら専業主婦だけを登場させる。共働きでがんばっている夫婦や自立した女性は、この映画ではいっさい排除されている。
この映画の原作は重松清の小説『ファミレス』である。この映画化作品においても、人生の節目節目でファミリーレストランが登場し、登場人物たちの人生の辿った道筋にとって、バックミラーのような装置として機能している。主人公カップルはファミレスで合コンして知り合い、ファミレスでできちゃった婚を約束し、ファミレスで幻滅し、ファミレスで懐古し、ファミレスで仲直りする。人生のバックミラーであり、回り舞台である。人生はファミレスだと作者は言っている。いろいろなメニューの選択肢があって、それを選んでいく。周囲のテーブルには老若男女さまざまな客層が、あたかも日本社会の縮図のように配置され、主人公カップルの位置取りを、何か普遍的な座標軸の上にあるかのように見せていく。