荻野洋一の『続・深夜食堂』評:あまりにもさりげなく提示される食、生、そして死

 まずは東京・中央区の築地という土地を歩いてみよう。江東区の豊洲新市場における「盛り土」問題、汚染物質検出によって、あいまいなうちに築地市場が延命中である。設備の近代化や広さの問題はともかくとして、日本最高級の繁華街・銀座の奥座敷にある築地は、東京の台所としては絶好のロケーションであり、その点で豊洲はもともと敵うはずもない。興味深いのは、新大橋通りをはさみ、築地市場と国立がんセンターが相対していることである。都民の胃袋と死の病が、くしくも道をはさんで相対しているわけである。食欲という生の欲望と死は隣り合わせであるし、それは悲劇でもなんでもない。われわれ自身の運命を具現化したような風景だ。

 食、生、そして死。それらがことのほか隣人同士であることを、あまりにもさりげなく提示して悪戯笑いを浮かべている映画がある。『続・深夜食堂』である。「ビッグコミックオリジナル」連載漫画原作のテレビドラマが昨年、スピンオフで映画になった。松岡錠司監督の言によれば、映画化構想はドラマ放送開始時から画策されていたそうである。今回のシリーズ第2作では、冒頭の〈食=生=死〉をあたかも裏づけるかのごとく、メイン舞台となる新宿歌舞伎町の狭い路地にある「めしや」に、喪服の客たちが三々五々あつまってくる。示し合わせたわけでも、共通の葬儀に列席していたわけでもなく、おのおのが知人の死を見送り、そのまま自宅に帰る気にならぬままに、この「めしや(通称:深夜食堂)」に立ち寄ったのである。「あら、あなたもお弔い?」などといったどうってことのない会話が客同士で始まる。都会人のさらりとした、毒にも薬にもならない会話が、サザエさんの放送のごとく反復されていく。

 

 今回はいきなり葬式帰りの黒ずくめ男女が、店のカウンターにずらりと並び、物々しい始まり方となった。しかし、そもそも「めしや」という「コ」の字型のカウンターをもつこのごくごく通俗的な空間が、ある宗教的な告解の空間であることを、私はかねてから考えていた。告解とは、ヨーロッパの映画でよく見かける、キリスト教信者が神父に小さくて暗い密室でみずからの罪を告白して許しを請うあれである。「めしや」の客は、マスター(小林薫)の手料理と酒を口に入れると、やおらスイッチが入り、みずからの罪、後悔、焦燥、苦悩といった毒をゲロし始める。食べてからゲロするための告解装置こそ、「深夜食堂」である。告解の語源はラテン語のpoenitentia(ポエニテンティア)だが、これはpoena(ポエナ=罰)に由来する。人々は罪を犯し、罰を受ける。罰は他人によって受けるだけではない。いや、むしろ大都会の生活にあってはさまざまなストレス、衝突、失敗、破滅、離反などによって、罰は本人みずからによって科されるケースが少なくない。深夜0時に開店し、午前7時に閉店するこの「めしや」は、罰をみずからに科した人々が、禊ぎのために訪れる救命道具なのである。人々がゲロし始めると、マスターの小林薫は、厨房の手を止めて煙草に火をつけ、告解の際の神父の姿勢をととのえる。

 本作は3部オムニバス形式になっている。第1部〈焼肉定食〉では河井青葉、佐藤浩市。第2部〈焼きうどん〉では池松壮亮、キムラ緑子、小島聖。第3部〈豚汁定食〉では渡辺美佐子、井川比佐志らが、おのれの重かったり軽かったりする罪を罰に代えて通り過ぎていく。小林薫は彼らに深入りしない。ただ、「食べたいものがあったら、なんでも言ってよ。できるものなら何でも作るから」と毎度同じ台詞を吐いて、みずから罰してやまない魂どもに平安を与える。これは、いわばTalking cure、ジークムント・フロイトの言う「除反応(Abreaction アプレアクツィオーン)」と言っていいだろう。

 

 松岡錠司という映画作家は元来、このようなウェルメイドな人情喜劇のフレームにおさまる才能ではないはずだが、今回も緩みのない演出が光る。また、松岡はクラシック音楽の使い方に対する知識、センス、切り方が抜群で、これは初期監督作から変わらない。前作でも多部未華子の印象的なラストシーンで使われたイタリア・バロック期の作曲家ドメニコ・スカルラッティの「チェンバロ・ソナタ イ長調 K.208」が、再びシンパシーを込めて使用された。おそらく松岡はこのソナタを、『深夜食堂』の裏テーマ曲と考えているのかもしれない。

 今回のシナリオは、いささか小津パロディの色彩があって、その点でも楽しさを味わえるだろう。山田洋次の『東京家族』(2013)のような居丈高な小津カバーとちがって、小市民喜劇のジャンルの源流までピクニックのように訪ねて行くような、そんなフットワークで小津に立ち寄る。第2部のキムラ緑子は、子離れできていない片親で、池松壮亮の小島聖への求婚を許せない。キムラ緑子の矛盾が「めしや」で公然たるものとなるのは、あたかも小津『彼岸花』(1958)における佐分利信のごとくである。また、博多から上京した渡辺美佐子が身寄りのないままに、多部未華子の下宿に泊まり込んで、血の繋がっていない老若の女二人がまごころの交感をしてみせるのは、『東京物語』(1953)の東山千栄子と原節子そのものである。

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