菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第9回
菊地成孔の『隻眼の虎』評:おそらく同じソフトによって『レヴェナント』のヒグマと全く同じ動きをする朝鮮虎
ついに出た。「日本人有名俳優による<日帝時代>の再現」
と、そんな事より、当連載的にとって本作は、かなり重要なトピックを持つ。
それは(特にレビュー前作『暗殺』を参照されたし)「日帝時代を、ちゃんと日本人俳優を使って描くこと」であり、ひいては「日本人のネイティヴ日本語、日帝に組した朝鮮人のカタコト日本語」の差をしっかり描くこと。である。
今回、ほとんど特別出演枠とさえ言える、日帝の「閣下」(軍位も姓名も劇中には出ず)を演ずるのは我らが大杉漣である。大杉の演技については後述するが、うがった見方をすれば、聖山である舞台の智里山は、大杉演ずる「閣下」の管轄地区内にあるだけに関わらず、作品には智里山しか描かれない。
つまり、ここでの日帝軍は、アンデルセン童話『雪の女王』やレリゴーこと『アナと雪の女王』にも似て、雪によって閉ざされた空間での、おとぎ話の悪役であって、生臭い政治性は脱臭されているのであり、だからこその「韓国で人気の日本人俳優の、リスペクト特出」だと断じても良いだろう(同じく、前回『暗殺』をご参照いただきたい)。
「韓国で人気の」俳優たち
今やデリケートを超え、超デリケートな領域にある問題なので、「他意や憶測は一切ないが」とするが、「韓国で人気の俳優たち(因みに「音楽家たち」も)」は存在する。
オダギリジョーと窪塚洋介だったら、圧倒的にオダギリである。妻夫木聡と伊勢谷友介だったら、圧倒的に妻夫木である。加瀬亮と星野源だったら、圧倒的に加瀬である。蒼井優と宮崎あおいだったら、圧倒的に蒼井である。理由は多義的だろうが(岩井俊二の人気が高いとか、実際に韓国映画に出ているとか)、そして、こうした明示されているラインナップと別に、どうやら大杉漣は、韓国の監督や共演俳優たちによって、非常にリスペクトされていると、プレスシートは伝えている。
だが残念(何故だ?)
せっかく「漫画のようなナチス・ドイツ」と同格にある、ここでの「名前も軍位も明確ではない、日帝の「閣下」」は、あらゆる力学によって、怪演を求められている。大杉漣にとって、怪演は、否、珍演さえも決してリミットオーヴァージョブではない。
何せ、物語を動かす、つまり「虎を殺さずにはいられない」原動力は、「聖なる山で、聖なる<大虎(←原題、筆者の個人的なセンスでは、僅差で原題のが良かった)>を退治するために、あらゆる根拠(復讐心や、聖なるものへの畏敬、金や地位、等々)を持って何年間も行動を共にしている猟師たち」が50%、残る50%が「虎の剥製にフェティッシュがあり、自然との戦いに、軍事力が破れるはずがないと信ずる、狂気の<閣下の鶴の一声>」なのである。カリカチュアライズされたキチガイぶりが、非常に地味でスローな本作のスパイスや活力源になるのは言うまでもない。
猟師役の、K-MOVIEでもK−TVドラマでもお馴染の俳優陣による演技はすべて的確であって、最高の誉め言葉でもあり、脇役俳優の最低限のミッションでもあるように、本物の猟師にしか見えない。
しかし、肝心要の大杉漣が、抑えた演技プランを立ててしまったか、自分なりに狂気を表現したつもりか、なんだかんだで韓国の現場は難しいか(ビッグリスペクトされつつも、やはり現場の水が違う。といったような)、全く狂気の人、に見えない。「そんな役じゃないんだよ」ではないのである「そんな役なのによ」なのである。
大杉一人を責めるのはお門違いだろうが、画竜点睛に欠く、とはこの事である。ディカプリオとトム・ハーディの如き、凄絶な演技合戦が、大杉と、主演の(非常に抑えた演技が成功している)チェ・ミンシクの間でも火花と共に演ぜられれば、本作は、もう何歩も『レヴェナント』に似ている。と断言できる位置にまで来るだろう。
主演の名優チェ・ミンシク、傑作Kノワール『新しき世界』の監督であるパク・フンジョンの力量と尽力については一切書かない。これは、本作が、当連載で過去に扱ってきた『技術者たち』『内部者たち』『暗殺』等の傑作に比べると、シリアスではあるが冗長で、深淵ぶっているが、大した中身のない、そして、肝心要の「漫画の悪役=日帝」が大暴れしない、要するに「さほど面白くない」作品なのに、『レヴェナント』との表層の相似だけでリアルサウンド韓国映画初複数レビューを成し遂げた。という、絵に描いたようなハイプに対する、筆者からのペナルティである。警告する。「見るな」とは決して言わない。『技術者たち』『内部者たち』『暗殺』を見てからにしてほしい。というのが、筆者のすがりつくような願いである。
(文=菊地成孔)