>  > 菊地成孔の『ひと夏のファンタジア』評

菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第7回(前編)

菊地成孔の『ひと夏のファンタジア』評:言葉が浮かばない。今年前半で最も感動した、劇映画による「夢」の構造。

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<音楽にも、そして映画にも「調性」が存在する>

 「調性」は自律性の一種で、事前にコンテキストの共有がなくとも、鑑賞者に作品の同一性と環境を与え、時間の進行と共に、物語が進行する、その進行に鑑賞者を乗せ、運んで行くことができる。

 我々が一般的に「普通の音楽」と見做す、12音平均律を調性に採用している音楽に於いて、調性は「長調/短調」更には「ハ長調(Cメジャー)/イ短調(Aマイナー)」といった固有名が与えられ、7音で構成される(残る5音は排除されるが、容易に侵入し、同一性を揺らがせながら強化する)。

 これをヒエラルヒーの頂点に、リズム上の調性である「拍子」や、音質の同一性、演奏音楽の場合は、演奏者が途中で無根拠に変わらないこと、等々、自律性としての「調性」は、音楽内のあらゆる階層に張り巡らされ、群体として音楽を律している。

 映画にもこれにあたるものがある。それは脚本(台詞と物語の集積)が、その祖先である演劇の脚本の時代に義務付けられた「三一致の法則」もそうだし、画質やメディアなどの同一性、同じ役を違う俳優が無根拠に演じない、といった同一性、等々、音楽のそれと似ている。

 「映画にも調性がある」という時、それは音楽至上主義的である事を避けられないが、かの「モンタージュ理論」の提唱者であり実践者であるエイゼンシュタインは、陽の目を見ることがなかった「映画と音楽の統一理論(「映画における第三次元」)」の中で、視覚情報(映画側)に於ける同一性に関しては、すべて音楽用語を援用する形にし、「音楽に於ける調性」という表現をはじめ、音楽側がたじろぐほどに映画理論に音楽の楽典用語が当てはめられている。

 自律性、同一性である「調性」を失った、つまり「多調」「無調」という状態は、一般的には「前衛的」「意味不明」「難しい」という反応を起こさせ易いが、調性と脱・調性、あるいは反・調性は対立物でも絶対分離性質ではなく、基本的にはすべての作品の中で、滑らかに液状化している。

 一般的に音楽に於ける調性の完成は18世紀とされ、その力を思う存分に振るったのが19世紀であり、20世紀は脱・調性/反・調性という、一種の親殺し、左翼性の追求がなされた時代であるが、19世紀末の先駆者たち(ワグナーなど)、の業績を受けて、20世紀の無調音楽の礎を築いた者には、まるで映画のように悪玉と善玉がいる。悪玉はシェーンベルク、善玉がクロード・ドビュッシーである。シェーンベルクをデヴィッド・リンチだとした時、クロード・ドビュッシー的だと言うことができる、私的には、本年前半のベスト1として一切の後悔がないと断言できる本作を、映画ジャーナリズム的に言えば

「ソフトで切ないタッチだから気がつかないけど、リンチみたいなもんだコレは」

 と言うことが、可能といえば可能である。

<先ずは悪点を>

 最初に悪点のみ挙げて楽になってしまおうとするならば2点ある。

 邦題の「ひと夏のファンタジア」は、配給会社の苦肉を鑑みたとしても大変に残念である。単に田舎を舞台にした凡庸な夏の恋ものがたりだと思われる。

 これは二重の意味で仕方がない。若きチャン・ゴンジェに有形無形の影響を与えているのが明らかなホン・サンスの邦題には直訳、逐語訳の作品がほとんどなく、配給会社は苦渋を舐めながら、敢えて通俗的な邦題と宣伝文句を書かなくてはいけなかった。そして、本作の英題は「ミッドサマー・ファンタジア」であり、英題の段階で単に田舎を舞台にした凡庸な夏の恋ものがたりだと思われるようなものだ。つまり同情に値する。

 もう一点はあまり同情に値しない。奈良県の奈良市から電車で2時間半かかる五条市と、更にそこから車で1時間ほどかかる篠原村を舞台にした本作は、作品の強度によって、辛うじて免れているものの、「奈良を出せばカンヌ」「アジアの森でロッテルダム」といった、一種の、海外映画祭対応のアニミズム利権(別名*河瀬直美利権)の中にあり、「しょうがねえじゃん。<なら国際映画祭>の出品作品なんだからさ」と言う反論はあるだろうが、では、吉本興業が仕切る「沖縄国際映画祭」で、美しい海を舞台にしたトーンとマナーが決まった映画が量産され、海外映画祭での受賞、或いは国内での興収、特定の批評者群が約束する高評、等々、あらゆる形の既得権益を持ったとしたら、どう思われるだろうか?

 筆者はこうして、ローカリティを既得権益化する、つまり東京にある各県のアンテナショップの作法で芸術が生まれることに批判的である。「右岸派/左岸派」や「西海岸ジャズ」といった現象のローカリティと真逆に位置すると思う。「いやあ、それ言ったら、カンヌ映画祭だって、もともとは観光誘致みたいなもんですよ」と言う反論は、十分予測の上で、である。

 それにしても、繰り返すが本作は、個人的な今年上半期ベスト作である。如何様なセッティングの中でも、セッティング自体を超える傑作が生み出される可能性は常にある。

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