映画『怒り』は妻夫木聡らの実力をいかに引き出したか? 演出と編集の見事さを読む

 素性の知れない人間が身近にいることに、人はどれだけ敏感だろうか。

 存命していれば今年、生誕80年を迎える映画監督・若松孝二(2012年没)の映画製作プロダクションには若いスタッフがいつもたむろしていた。ある日、「伊藤はいるか?」とコワモテの男が訪ねてきた。借金の取り立て代行人だという。ところが、そんな名前の者は過去も今も在籍したことがない。「うちにはそんな人はいません」若いスタッフは平然と答えて追い返した。本当にいないのだから、怖がる必要もなかった。伊藤孝が若松孝二の本名だとスタッフ一同が知るのは、若松が海外の映画祭に赴くために旅券を取得した時だった。ある事件で拘置されたヤクザが過去を捨て心機一転、カタギの道を歩むにあたってつけた名前が若松孝二――これが当人の明かした過去と本名を名乗らなかった理由である。

 『怒り』には3人の得体の知れない男が登場する。新宿二丁目に現れた大西直人(綾野剛)、千葉の漁港で働く田代哲也(松山ケンイチ)、沖縄の無人島で寝起きするバックパッカーの田中信吾(森山未來)。彼らは1年前に起きた夫婦殺害事件で手配中の犯人の特徴に、どこかしら似ている。整形を繰り返して顔を変えたが、公開捜査によって各地で目撃情報が寄せられる。彼らは各地で上手く他人と交流して、それぞれの家に入り込んで信頼を得るが、関わる大人たちは心の片隅で逃亡犯なのかも知れないという疑心暗鬼に囚われるようになる。 

 本作が英会話学校講師を殺害後、整形を繰り返して2年あまり逃亡して逮捕された市橋達也の事件をベースに、世田谷一家殺害事件などが盛り込まれているのは明らかだが(手配写真もそっくりである)、映画は吉田修一の原作と同じく、この3人を並走して描く。原作を未読でもドラマツルギーからすれば、この3人のうちの誰かが真犯人で、後の2人は無関係に違いないと予想するだろう。本作は犯人探しや犯行理由はさして大きな問題ではない。ひとつの事件の起こす波紋こそが主軸となる。

 では、なぜ犯人の内面を描かないのか。原作がそうなっているから、というのは答えではない。原作が描いていない裏や視点を変えることが可能なのが脚色である。犯人は一軒家に侵入してその家の妻を殺した後も潜伏し、夫が帰って来ると殺害した。そのうえ被害者の血で“怒”という文字を室内のドアに指で書き殴っている。なぜこんな凶行におよんだのか。犯人を知る男から動機ではないかと考えられる証言が出て来る。だが、それは所詮、他人の想像でしかない。 

 本作の監督・李相日は日本映画学校(現日本映画大学)の出身だが、その創設者・今村昌平が監督した代表作『復讐するは我にあり』(79年)は、西口彰事件をもとにした実録犯罪映画である。5人を殺害して全国を逃亡し、最後は滞在先の旅館で10歳の娘(映画では売春婦に変更)が手配写真に似ていることに気づいて通報するのだが、今村は通報する側にはとんと関心を示さず、ひたすら犯罪者の内面と、ピカレスクロマンとしての逃亡劇を主軸に描いた。

 

 本作でも同様の作劇にすることは可能だろうか? ヒントになる先行作品がある。ディーン・フジオカが監督・主演を務めた『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』(13年)は、市橋の手記をもとにした逃亡劇だが、ひたすら沈鬱な表情で各地を彷徨う。沖縄の無人島の廃墟で過ごす時もひたすら苦悶の表情である。本当にそうだろうか? 逃亡中の彼は、生と自由に執着し、かつてない高揚感に満ちていたのではないか。しかし、映画の冒頭に「本作は、2007年に起きた『市川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件』被告の手記を脚色したものです。被害者とその残された家族に心から哀悼の意を表します」というエクスキューズを出さなければならないような時代では、『復讐するは我にあり』とタメを張る映画は作れない。その意味で『怒り』は、自分のことを誰も知らない地で開放されて生を謳歌する男たちの中に犯人を忍ばせることで、犯罪者の外面を見事に描いた作品と言えるだろう。

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