菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第8回(前編)

菊地成孔の『暗殺』評:「日韓併合時代」を舞台にした、しかし政治色皆無の娯楽大作

「日韓併合時代の京城を描いた韓国映画」と「真珠湾攻撃を描いたアメリカ映画」、あなたはどちらを見たいだろうか?

 我々は、「日本人が悪役。である外国映画」を、わずかな数であるが、熱狂的に楽しんで観た、という記憶を持っている。かのブルース・リー・クラシックスのひとつに数えられる『ドラゴン怒りの鉄拳』(72年)は、その輝かしい代表であろう。

 ある世代の、あるセクトの人々、つまり「この映画を観に行った全ての人々」は、悪の柔道家である日本人たちとの闘いの果て、最後にブルース・リーが、卑劣な日本人警官たちによってハチの巣に射殺され(る直前で映画は終劇をむかえるが)ようとも、複雑さのフの字も感じることなく、雑味皆無純度100%に近い興奮で観賞し終えたはずだ。

 興奮度はかなり落ちる、というより「比べちゃいけないよ」という作品だろうが、『ローラーボール』(75年)のオリジナル作(ジェームズ・カーン主演)も、記憶の片隅ぐらいにはあるかもしれない。カーンの所属チームが最後に戦う最強の敵は東京チームである。

 類例はまだまだあるだろうが、高い確率でこの2作と概ね同一のジャンルである。エンタメのアクション作であること。そして<太平洋戦争映画>ではないこと。前者はいかなる設定の上でもリアルな政治性の介入を抑え、後者は(日本にとって負け戦であるがゆえに)最悪最強の悪役たりえる強度を抑える、という効果がある。

 「アナロジーとしての戦争」とも言える企業戦争、つまり、日本の企業人が悪役(もしくは「ガツンとやられる役」。一例に『オーシャンズ11』(01年))として出てくる映画もまた、実際の戦争を描いた映画と等しく、我々に若干の雑味を残し、どんなに痛快なアクション大作でも、純度100%の興奮は与えてくれない。ある時期の<対米(のみならないが、主に)企業戦争>は日本にとって負け戦ではないからだ。

日本=最強の最悪である条件、それは映画史に記号化してもらえない

 両者は絶妙な力学で雑味を消す。しかし重要なのはやはり前者であろう。積極的かつ最強の雑味消しは、「痛快なアクションそのもの」に他ならない。アクションの必然性をセットする脚本も重要ではあるが絶対ではない。「アクション」によってのみ駆動する映画というメディアに於いて、その重要性と効果を否定する映画ファン、というのは一種の語義矛盾ですらある。

 何せ『ドラゴン怒りの鉄拳』は、太平洋戦争映画ではないが、さらに悪い。もし日本人が他国の映画の中で憎むべき悪役として描かれる場合、前述の通り、<終戦時清算>がどれほど有効かという考察はさておいて、最終的には日本人の負け戦となった太平洋戦争を描かれるよりも、日本人がまだ勝ち組だった(日韓併合も含む)、侵略と植民地政策の、いわゆる「ブイブイ言わせていた時代」を、他ならぬ被侵略国側に描かれる方が遥かに強烈で、我々を委縮させる(近作ではアン・リーの『ラスト、コーション』(07年)に於ける日本軍の軍人がそれに当たるが、あの作品は侵略者としての日本人を糾弾するのが目的の映画では無かったので、わずかな雑味に留まる。とはいえ、だからこその後を引く雑味とも言える)。

 日帝時代を舞台にした『ドラゴン怒りの鉄拳』の凄まじさは、ブルース・リーの肉体と、その奇跡的なムーヴによって、最アウェイとも言える状況設定がもたらす、雑味を超えた<食えなさ(これは、他のアジア諸国民にとっては、普通の旨味になる)>を文字通り力業で粉砕してしまい、我々日本の観客のナショナリズムを熱殺菌のように無化させた事だと言える。

 微妙な考察になるのでここでは深入りしないが、これは『インディ・ジョーンズ』シリーズ(81年〜)や、近作だと『イングロリアス・バスターズ』(09年)に於ける、<記号化=脱臭化=キャラクター化されたナチス・ドイツ>という存在が、なぜ映画史上に生まれたか?という問いと直結しているのは言うまでもない。『ドラゴン怒りの鉄拳』、そして本作が、あと10本づつ製作されていれば、<記号化=脱臭化=キャラクター化されたナチス・ヤーパン=日帝>が、映画史上に生まれ、安全な悪役として大活躍していくのだろうか?

 本作『暗殺』は、当の大韓民国でさえ、恐らく初めての「日韓併合時代を描いたアクションエンターテインメント巨編」であり、最初に書いてしまえば、ぶっちゃけ大傑作である。そして何よりも驚くべきことは、雑味が一切ないことに尽きる。

 アクションは、一人の超人的な天才の肉体そのものによって、という強度ではない代わりに、現代的なアイデアを大いに盛り込み、最高水準の技術によって構造化されており、雑味消しは完璧だ。それは何かもう、そもそも最初から「消すべき雑味など無かった」かのように雑味がしない。この新しさは、どこから来るものなのだろうか?

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