菊地成孔の『暗殺』評:「日韓併合時代」を舞台にした、しかし政治色皆無の娯楽大作

菊地成孔の『暗殺』評

ストーリーは例によってチラ出ししか出来ないが(もう公開後だが、物語の性質上、これから見る観客へのネタバレを禁ずるべきなので)

 毎度ながら、恐るべき緻密さでありながら、さっと楽に書いたようなスマートな味わいの脚本は、前述の通り、劇中の最悪役を韓国人、しかも、元々は韓国臨時政府の警務隊長でありながら、日帝の脅しに負けて寝返るヨム・ソクチン(イ・ジョンジェ演。『10人の泥棒たち』では、間抜けだが腹黒い、木偶の坊的なキャラクターだった彼は、本作では20代から60代までを見事に演じ、堂々たる主演を張る)に置く。ヒロインである暗殺団の腕利きスナイパー、アン・オギュン(チョン・ジヒョン演。『10人の泥棒たち』では、世界中の誰しもが成し遂げようとして成し遂げられなかった「リアル峰不二子/クラシックスタイルのボンドガール/しかもクールでなくコミカル」という大仕事を成し遂げ、今や北東アジアでは知らない者はいない、総てが上手くいった藤原紀香である。中国や韓国、香港に旅行に行った人は、何かの広告によって必ずこの女優の顔を見ている。本作では一転し、近眼の名スナイパーと、親日派の暗殺対象の娘、満子との双子/一人二役を寡黙に演じ、複雑な人間関係が渦巻く本作で、イ・ジョンジェとの双頭主演を張る)を見出し、物語の中枢に着任させながら、ほぼ同時に裏切る。ダース・ベイダーである。

 これまた前述の通り、日本人は次点にいる通常悪役となる。朝鮮総督府司令官、川口守と、その息子、川口大尉等、あらゆる日本人は、立場上「もう、そこにいるだけで悪人」な訳で、敢えて憎々しげに描くベタな必然性を、監督はスマートに避けている。

 この基礎設定、よしんば本作に僅かなれども政治性があったとしても、それは日帝による支配という前提よりも、朝鮮人による独立運動が一枚岩になれず、現在に至っても、分断と停戦という状況を生んでいるという、「その後」にフォーカスされている。とはいえ再び、それはどう見てもリアルな政治性としては僅かながらのものであって、映画がアクションそのものである事、登場人物は魅力的なキャラクターという傀儡である事、しかし考証、特に画面に関しては極度なまでにリアルに忠実である事(本作の画面に最も近親性がある映画は間違いなく『ALWAYS 三丁目の夕日』(05年)である。VSXの技術、というか端的に使用ソフトが同じなのであろう)、ジョン・ウーの香港ノワールのブロウアップ版とも言うべき、クライマックス「三越京城店」での結婚式における大虐殺の夢のような美しさ、さらにその源流であるサム・ペキンパーの、有名な「死のダンス」「荒野」の(映画史的な生真面目さとも言える)登場、『キック・アス』(10年)『キングスマン』(14年)等々に顕著な「愛すべきキャラクターの、まさかの惨殺」という歌舞伎のような派手で薄っぺらなショック、等々、筆者は「今っぽいな。とにかく」という、白痴ギリギリの言葉しか思いつかない。

 漫画原作の比率が非常に高まっている日本映画界に、韓国映画界は全く別の立場から追従していると言える。韓国の「ウエブ漫画」の発達は、20年後にはコモンセンスとして定着しているかも知れない。本作はオリジナル脚本だが、「これはウエブ漫画が原作で」と言われても違和感は全くない。

そして、最後にして、最初の問題はここに尽きる

 ここまで書いておいて、ミステリー小説のオチのようになっては、映画批評としては些かオーヴァーアクトかも知れない。しかし、この問題こそが、本作のみならず、映画というメディアが侵略と独立という歴史的な事実を、エンタメとして描くときの構造的な基底部として、総ての作品を律しているのである。

 本作は、韓国人役、日本人役、中国人役を、総て韓国人俳優が演じ、物語の都合上、日本語と韓国語と中国語が入り乱れる。そしてそれは「ネイティヴの韓国語/日本語/中国語」「片言の韓国語/日本語/中国語」が入り乱れることを意味している。

 ここまで読んで、未見の方々に質問したい。やりようによっては、前述6パターンの言語コントロールによってのみ、物語を駆動させることも可能なほどの設定の中、本作はこの問題をどう扱っているのか?

 最初と別の意味で驚くべきことに、本作で「ネイティヴの日本語」は一切発音されない。劇中発音される日本語は、日本語が話せる韓国人のものも、韓国語が話せない日本人のものも、韓国語が話せる日本人のものも、とにかく一律片言(もう、笑ってしまうような)であって、それはまるで「ドラゴン怒りの鉄拳リスペクト」と言っても過言ではない(因みに、冒頭に挙げた『ローラーボール』の東京軍の応援は「ぎんばれ! ときよー!」としか聞き取れない片言の大合唱である)。

 観客に問いを残してはいけないというエンターテインメントのルールを、本作はこうして、とんでもない形で破る。いくら日帝時代が舞台だからといって、仕事として協力する日本人がいない筈がない。監督の個性として、何かを雑にしてしまっている筈はない。何せ、ネイティヴ × 片言の対比は、1930年代設定の、あらゆる国のあらゆる映画のキーポイントになる筈のファクターである。

 脚本の現代性、ちょっとしたパロディのくすぐり、「萌え」のコントロール、VSFとセットの完璧さ、といった、全方向が新世代的である本作が、言語のみ過去志向(なのかどうなのかさえ推測できない)であるという事実は、卓外とはいえ政治性に包含されるのか否か? アートに残される謎よりも、エンタメに残される謎のがはるかに深い。「日韓の片言問題」は、何故、あらゆるエンターテインメント業界の中でも据え置きのままなのだろうか? これは「侵略と片言」という、さらに数段根が深い問題と、一見似ているが違う。『戦場のメリークリスマス』(83年)や『トラ・トラ・トラ!』(70年)や『SAYURI』(05年)『GODZILLA ゴジラ』(米版/14年)の事を考えても、答えは出ない。はっきりしている事は『戦場のメリークリスマス』『トラ・トラ・トラ!』『GODZILLA ゴジラ』の面白さと、『暗殺』の面白さが、比べようがないほど違う。という事だけである。

(文=菊地成孔)

■公開情報
『暗殺』
9月17日(土)シネマート心斎橋にてロードショー
監督・脚本:チェ・ドンフン『10人の泥棒たち』  
出演:チョン・ジヒョン、イ・ジョンジェ、ハ・ジョンウ、オ・ダルス、イ・ギョンヨン、チョ・ジヌン、チェ・ドクムン
2015年/韓国/139分/5.1chデジタル/カラー/原題:암살/字幕翻訳:小寺由香
配給:ハーク  
(c)2015 SHOWBOX AND CAPER FILM ALL RIGHTS RESERVED.

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