『ブレイキング・バッド』から『ベター・コール・ソウル』へ 米ドラマ最高傑作の“進化”を追う
2013年の完結後も称賛の声が止まないドラマ『ブレイキング・バッド』のスピンオフシリーズ『ベター・コール・ソウル』は、一見ファン向けに軽く作られているようにも見えて、実は『ブレイキング・バッド』のドラマとしての到達点のさらに先を目指している作品だ。『ブレイキング・バッド』ファンの期待には充分応えてくれるし、まだ本編を見ていない方にも自信をもってお勧めできる。むしろ、ある意味で『ブレイキング・バッド』の世界に対し、本編よりもアプローチしやすい作品になっていると言ってもいい。
1950年代と並ぶ「テレビ黄金時代」と言われる現代アメリカテレビ界にあって、「テレビドラマ史上最高傑作」の呼び声高い『ブレイキング・バッド』は、その隆盛の象徴のような作品だ。しかし、その作品としてのクオリティーと本国での名声にふさわしいだけの知名度・人気を日本で獲得しているとは未だ言えないし、一ファンの目から見ても、その理由は必ずしも「日本への紹介が遅れたから」「権利が塩漬けにされていたから」といった作品外の事情にだけある訳じゃない。
一言で言うなら、『ブレイキング・バッド』は「重い」。『ブレイキング・バッド』は、そのタイトルのとおり「悪」を主題に据えたドラマだ。主人公ウォルター・ホワイトは安月給の化学教師だったが、重度の肺がんを患っていることが分かったことを機に、治療費と家族に残す金のためにドラッグの密造・販売に手を出し、そこからは坂を転がり落ちるように「悪」の世界にはまっていく。ウォルターが家族を裏切り、信頼をなくし、人を殺し、唯一信頼できた相棒とも対立し、ついにはドラッグビジネスの大物=ハイゼンベルグであること以外全てを失っていく様を、『ブレイキング・バッド』はこれでもかと緻密に、丁寧に、子細漏らさず描いていく。ブライアン・クランストンの一世一代の名演もあって、とにかくドラマとして濃く、重い。それだけにいったんハマると抜けられない魅力があるのだが、逆に言うと軽い気持ちで見るというアプローチが難しい。
その点、現時点で第2シーズンまで公開中の『ベター・コール・ソウル』はあくまで軽妙で、脱力し、乾いている。
ドラマは本編の6年前の時点からスタートする。本編では悪趣味なテレビCMで節操なく顧客を募りつつ、裏では犯罪者と繋がりマネーロンダリングやら身代わり受刑者のあっせんやらで荒稼ぎする悪徳弁護士としてウォルターの前に登場するソウル・グッドマンだが、このドラマのスタート時点では単なる駆け出しの貧乏弁護士ジェームズ・マッギル(本名)、通称ジミーにすぎない。
本編におけるソウルは重いドラマにおける道化役、コミックリリーフの役割を果たしていたが、晴れて主役の座をゲットしてもその存在感は変わらない。ロクな仕事が来ないこと、事務所がボロいこと、弁護士としての身の振り方に悩んでも、悩んでいるのがソウルなので深刻になりようがない。
もともと故郷ネブラスカでケチなチンピラ詐欺師稼業を営んでいたが、刑務所入りの危機に陥った際に、ドラマの舞台アルバカーキの大物弁護士である実兄・チャックに助けられたことを機に改心。改心した勢いで、働きながら通信教育で弁護士資格まで取得、弁護士として世に立つことを目標に悪戦苦闘中、というのが本作でのジミーだ。そんなジミーがなぜ6年後、悪徳弁護士ソウル・グッドマンになってしまうのか。その謎に引っ張られるようにドラマは進行する。
『ベター・コール・ソウル』は、全体の空気は軽いが、『ブレイキング・バッド』の最良のエッセンスを引き継いでいる。
主題としての「悪」。対立関係を軸に、少数の主要人物の内面の変化をじっくり掘り下げる物語。凝りに凝った画面構成。音楽のクールな使い方。『ブレイキング・バッド』を制作する中でヴィンス・ギリガンはじめ制作者が獲得したドラマ作りの方法論が継承されている点は、『ブレイキング・バッド』ファンとしてまずたまらく嬉しい。その上で、このドラマでは根本のところで本編とは異なる、新しいアプローチでドラマが作られている。
『ブレイキング・バッド』は、いわば奇跡が生んだドラマだった。ファンにはよく知られた話だが、ウォルターの相棒ジェシーは当初の予定では第1シーズン途中で敵に殺され、ドラマの舞台から退場するはずだった。どこまでも「悪」に堕ちていくウォルターに対し、根っこの部分でどうしようもなく「善」であるジェシー。この2人の、バディとも師弟とも疑似親子とも宿敵ともつかない複雑にこんがらがった関係が存在しない『ブレイキング・バッド』なんて、今になっては想像もできない。ヴィンス・ギリガンがジェシー役のアーロン・ポールの演技に可能性を見出したことと、脚本家協会のストライキもあり、ジェシーというキャラクターが生き延びていなかったら、『ブレイキング・バッド』はまったく違うドラマになっていた。
ウォルターの義弟でもある麻薬捜査官ハンクも第1シーズンで退場する予定だったという。タフで粗野な正義漢のように振る舞いながら、その実、「悪」の放つ魅力に誰よりも魅せられているハンクの複雑なキャラクターも、いわば想定外の産物だったのだ。都市伝説じみた大物ドラッグ製造者ハイゼンベルグが、実は凡庸な善を体現した目の前の義兄であることなど思いもよらないまま、ハイゼンベルグの非凡な「悪」に惹かれ、知らずウォルターを追い詰めていくハンク。2人の隠れたライバル関係の存在しない『ブレイキング・バッド』も充分にあり得たわけだ。
『ブレイキング・バッド』にはこういった逸話が無数にある。全シリーズを通じて見事に1つの物語として完結したドラマだが、決して制作者の構想通りに制作されたわけではないのだ。
アメリカのテレビドラマは、常に短期的な視聴者数とのシビアな勝負にさらされている。それが競争原理として良い方向に働くこともあるが、クリエイティヴィティーにまで悪影響を及ぼし、人気のないキャラクターが突然消えたり、キャラクターの性格が改変されたり、ドラマが終わることができず迷走したりといった、肝心の視聴者を裏切る結果につながることも珍しくない。
『ブレイキング・バッド』は、2008年から2013年にかけての放映中、偶然の出来事や、ファンからの声や、高まる評価に伴う予算の大幅増といった想定外の要素を吸収し、雪だるま式に膨れ上がりつつ巨大化していった。それらの要素が奇跡的に全て良い方向に作用し、さらにヴィンス・ギリガンをはじめとする制作者がそれを最大限の慎重さと熱意をもって全62話で一つの完結した物語にまとめ上げるという偉業を成し遂げたことによって、『ブレイキング・バッド』は前人未到の傑作となった。
ヴィンス・ギリガンはじめ制作者は、『ベター・コール・ソウル』でその奇跡の再現は狙っていない。奇跡は狙っては起こせないことを、優秀な制作者はよく分かっている。彼らが取ったのはもっと別の、新しいアプローチだ。
このドラマはNetflixのオリジナル作品であり、他のオリジナル作品と同様、1シーズン全話が一挙に制作されている。公開自体は週1話ペースだったが、配信というフォーマット上、一気に視聴することが想定されていることには変わりない。つまり、あくまで旧来のテレビドラマと同様の環境で制作された本編とは、制作環境から異なるのだ。