佐々木俊尚の映画『スティーブ・ジョブズ』評:“天才的なデザイナー”の片鱗が描かれている
アップル社の共同設立者であるスティーブ・ジョブズが、1984年のMacintosh、1988年のNeXT Cube、1998年のiMacという3大製品のプレゼンテーションを行う直前の舞台裏にスポットを当て、その人物像を描き出した伝記映画『スティーブ・ジョブズ』が公開されている。ウォルター・アイザックソンによる伝記を原作に、『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイル監督がメガホンを取り、『ソーシャル・ネットワーク』のアーロン・ソーキンが脚本を手がけた本作は、ITの革命児・ジョブズのどんな側面を切り取っているのか。IT・メディア分野に詳しい作家・ジャーナリストの佐々木俊尚氏に、本作の魅力を語ってもらった。
「“指揮者”としてのジョブズの姿勢が浮き彫りになる映画」
ーー本作は1984年のMacintosh、88年のNeXT Cube、98年のiMacという3つのアップル製品の新作発表会の裏側を描いた、いわゆる“内幕モノ”です。ジョブズの人間性はもちろん、仕事へのスタンスや抱いていたヴィジョンも想起させる内容でした。
佐々木俊尚(以下、佐々木):ジョブズが共同設立者の一人であるウォズニアックに対して、小沢征爾の指揮の素晴らしさを引き合いに出し、「君は演奏家で、私は指揮者だ」と言っていたのは、彼が果たした役割をうまく端的に表していたと思います。ジョブズはOSなどを開発する技術者ではなく、コンピューターの外観を設計するデザイナーでもなかったため、当時は「何も発明していない」と批判されることも多かったです。しかし、実際に彼が残した功績は、その後のIT産業の考え方に大きな影響を与えました。
私は以前から指摘しているのですが、日本ではテクノロジーを文房具の延長のようにしか捉えていない部分があります。たとえばエクセルはデータを構造化して、コンピューターで読み込めるようにするソフトなのに、なぜか日本だと単なる方眼紙になってしまう。“構造化”というポイントが抜け落ちていて、だからこそ日本の電気産業やITベンダーは勝利できなかったのでしょう。
コンピューターやスマホという製品の仕組みは基本的に、基盤にたくさんのモジュールが付いていて、その周囲をカバーが覆っているだけのシンプルなものです。そして、今や基盤やモジュールは誰でも簡単に手に入れることができる。iPodが発売されたばかりの頃、それを手にした日本のメーカーの者が「こんなものならウチでも作れる」と言ったという逸話があるように、一つ一つの部品はありふれているわけです。しかしジョブズは、“構造化”をよく理解していて、ハードウェアとソフトウェアをどのように組み合わせて、どういう価値を提供するか、垂直統合して全体設計をきちんとやった。iPodで言えば、使いやすいスクロールホイールやユーザーインターフェイスに加え、iTunes Storeで楽曲を提供するところまで設計している。
かつては工業製品のデザインというと、どんな色でどういう形かが重要で、内部の機構はあまり関係なかった。しかし今は、どんなソフトでどういう通信をするか、それを人間がどう制御するかまで含めた全体の設計を指します。この発想がコンピューターやテクノロジーの世界では極めて重要で、そういう意味でジョブズはマッキントッシュの時代から天才的なデザイナーだったといえるでしょう。その片鱗が、この映画では全編を通じて描かれています。
ーー劇中で「自分はアーティストだ」と主張していたのも、象徴的でした。
佐々木:当時のコンピューターはオープンアーキテクチャが基本で、Apple IIもそうだったのに、ジョブズがプロジェクトの指揮を執ったMacintoshがクローズドだったのは、彼のアーティスト性を示していたと思います。きっと、彼が思い描く完成系のコンピューターを作り上げたかったのでしょう。
ウォルター・アイザックソンの原作にもある一コマに、若い頃のジョブズが家具もなにもない部屋に住んでいて、「なぜ家具を置かないんだ」と質問したら、完璧な部屋を作りたいから簡単には家具を置けないと答えるシーンがあります。こうした性格も“全体を設計する”発想に繋がっていたのでは。
ただ、当時は誰にも理解されなかったのも納得できます。Apple IIの開発者であるスティーブ・ウォズニアックと意見が食い違ってぶつかる様子も描かれていますが、ジョブズが間違っていると考えていたのは彼だけではないはず。