映画館にも“人格”は宿るのか? 映画館支配人が『もしも建物が話せたら』を観る
映画館で映画を見ることの意義は
映画ファンにとって身近な建物と言えば、なんといっても映画館であろう。自宅でも気軽に映画を見られる時代になったが、映画ファンにとってやはり映画館で映画を見るのは特別な体験である。ネットでいつでもどこでも映画を見られる環境が整いつつあるのに、わざわざ映画館にまで出向く理由は何なのだろうと自問することもあることと思う。映画館の映像や音響のスペックは確かに自宅のテレビよりも優れているだろうが、それでもテレビは大画面化し、リビングにドルビーアトモスを設置可能な時代にもなった。映画ファンがわざわざ映画館に映画を見に行く理由は単にスペックの羅列で説明しきれるものだろうか。映画館のような文化的建造物には何か特有の「磁場」のようなものがあるのではないか。
筆者は現在厚木の商業ビル「アミューあつぎ」にある映画館の支配人をやっている。このビルは2年前にオープンしたのだが、さらにその6年前に別の商業施設が廃業して以来、廃墟となっていたところだ。その廃墟を改築し公共施設を含む新たな複合施設として蘇ったのだが、駅前の一等地に大きな廃墟が佇んでいる様は端から見てもわびしい光景であった。オープン以来、周辺の人の流れに確実に影響を与えているであろうし、なにより活気は以前に比べて高まった。やはり建物の影響力というのは大きいのだな、と感じる。
建物の擬人化というユニークな試み
ヴィム・ヴェンダースが製作総指揮を務める「もしも建物が話せたら」はそんな建物が持つ「磁場」に迫る作品と言えるかもしれない。原題は「Cathedrals of Culture(文化の大聖堂)」。6人の映画監督たちがそれぞれ、文化の中心地ともいえる建物に焦点をあて、建物自身にモノローグで語らせるというユニークな作品だ。無機物を擬人化するというのは、万物に魂を感じる日本人にはなじみやすい感性かもしれない。建物自身に建物の成り立ちや関わる人々を紹介させ、それぞれの建物の持つ魅力に迫る。
それぞれの建物の人格は、監督たちの創作によるものなので、ドキュメンタリーと劇映画の要素が混ざり合った作品と言えるだろう。監督たちはそのモノローグによって、建物の人格(磁場=魅力)を表現してみせる。
建物は社会の理想を体現するか
「建物はあなたが考えている以上に世界に影響を与えている」とヴィム・ヴェンダースはベルリン・フィルハーモニーに語らせる。この世界に名を轟かすコンサートホールが竣工されたのは1963年。わずか100m先にベルリンの壁がある以外は何もないこの土地に、ベルリン・フィルハーモニーは文化の息吹を吹き込んだ。その後、ナショナル・ギャラリーや州図書館もこの地に建設され、東側と分断する壁のすぐ近くに文化の集積地が生まれるに至った。
50年経った現在でもこの建物は世界中の多くの人を惹きつけてやまない。劇中劇として、金髪のアジア系の女性がチケットを求めて立っているシーンがある。初老の白人が20ユーロでチケットを譲り、吸い込まれるようにホールの椅子にやってくる彼女は流暢なドイツ語を話す。妙に無国籍感が漂う彼女の存在は、建物自身が言う「開かれた社会という理想郷(ユートピア)が私の中に実現している」をどこか体現しているように感じさせる。