「読書」は一夜にして世界を変えるーー『リトルプリンス 星の王子さまと私』のメッセージ

『リトルプリンス』に隠されたメッセージ

 出版から70年以上経って、今もなお世界中で愛されている児童文学「星の王子さま」が、初の劇場用アニメーション作品として、ヨーロッパのスタッフや、ディズニーやドリームワークスで活躍したアメリカのアニメーション作家たちを招き、フランスで制作された。それが、『リトルプリンス 星の王子さまと私』だ。

 原作の絶大な人気から、期待のハードルが高く厳しい目で見られることが必至の題材であるが、本作は、多くの困難な障害を乗り越え、原作の魅力を保ったまま、さらに読書のよろこびや文学が持っている力を表現した、見事な映画作品に仕上がっている。ここでは、映像化への苦難の道のり、また、作品の裏に隠された深いメッセージについて迫っていきたい。

最も愛される名作児童文学をどう映像化するか?

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 「星の王子さま」は、フランスの作家であり飛行士でもあったサン=テグジュペリが、大戦中に亡命先であるアメリカで書いた、世界中の多くの人々に最も読み継がれている児童文学だ。その人気の理由は、かわいい挿し絵や、洗練されたユーモア、抽象化された詩的な美しさのためだろう。しかし、そのブームが一時的なものでなく、時代を超えて、いま現在も熱心に読まれているというのは、その軽やかな外観とは裏腹に、描かれていることの深刻さにもある。その内容は、人間個々がどう生きるかを深く思索させ、人生の意義にまで到達すらしてしまう。だからこそこの作品は、広く、そして深く人々に愛されているのである。

 かつてオーソン・ウェルズ監督が映画化を熱望しながら断念したように、この作品を映像化することは非常に難しい。小さな惑星に住む少年が、そこに咲いたバラと出会い愛情を交わすが、仲違いをして、宇宙の旅に出てしまう。そして、様々な惑星に降り立ち、大人たちや動物たちと出会い成長することによって、自分の惑星に残してきたバラの真実の心と、自分の過ちに気づいていく。このような空想的で詩的な物語と世界観を、映像として具体化してしまうことは、作品の持つ抽象的な魅力を損ねることにつながってしまう。ボブ・フォッシーの印象的なダンスなども楽しめるミュージカル映画や、より子供向けに内容を噛みくだき、エピソードを追加した日本のTVアニメーション作品など、他の映像化作品がそうであるように、原作の抽象的要素を具象的なものに置き換えて、さらに新たな価値を付け加える必要があることも事実だ。

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 本作『リトルプリンス 星の王子さまと私』の監督に抜擢されたのは、ドリームワークス・アニメーションなどで活躍するアメリカ人、マーク・オズボーンだ。中国を舞台にした、彼の代表作『カンフー・パンダ』は、中国文化に敬意を払い、子供向けアニメーションでありながら、カンフーの表向きのかっこよさだけでなく、その深い真髄に迫ろうとする真摯な作品である。

 オズボーン監督は、この「星の王子さま」映像化問題への、今までにない有効的な対抗策を見つける。それは、原作の物語それ自体には新しい意匠をあまり加えないよう、できる限り忠実に描き、別個にオリジナル・ストーリーを用意するというアイディアである。原作のパートでは、ストップモーション・アニメーションという、粘土や人形、切り絵などを人の手で一コマずつ動かし撮影するという手法を使っている。この、昔ながらの素朴な味わいの映像は詩的な美しさを持ち、まさに「星の王子さま」の世界を描くのに最適だと思える。そして、オリジナルのパートでは、現代的なCGアニメーションを駆使して描いていく。このことで、原作の魅力を保ったままで、映像作品ならではの価値を追加することに成功しているといえるだろう。このような試みは、オズボーン監督にとって今回だけのものではない。自身が監督した『カンフー・パンダ』の冒頭で、日本アニメの紙芝居的な決め絵の演出(リミテッド・アニメ)を取り入れたという2Dアニメーションや、「スポンジ・ボブ」の実写パートを担当するなど、複数の手法を、柔軟に作品に取り入れている映像作家なのだ。この姿勢が、困難な映像化を成立させた大きな要因であることは間違いない。

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