桐谷健太が『べらぼう』で演じた大田南畝とはどんな人物だったのか? 狂歌を愛した男の生涯を描く『雀ちょっちょ』

 蔦屋重三郎をはじめ、平賀源内、喜多川歌麿、朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、葛飾北斎など、NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に登場した多士済々の文化人たちの中で、登場回数のわりに(最終回も含めて)強烈な印象を残した人物といったら、やはり桐谷健太が演じた「大田南畝(おおたなんぽ)」になるのではないだろうか(俺たちは、屁だ!)。蔦重が仕掛けた「狂歌ブーム」の中心的な存在――「四方赤良(よものあから)」の狂名で知られる人物だ。『まいまいつぶろ』(幻冬舎)で「第9代将軍・徳川家重」を、『またうど』(幻冬舎)で「老中・田沼意次」を描いた歴史小説家・村木嵐の最新作『雀ちょっちょ』(文藝春秋)は、そんな大田南畝の生涯を、膨大な文献史料の読み込みと、その果てに見出した著者なりの「推察」によって、丹念に描き出した一冊だ。

 のちに「南畝」の号、あるいは「四方赤良」の狂名で世に知られることになる大田直次郎は、江戸の御徒組御家人・大田吉左衛門の嫡男として生を受けた。3つ4つの時分からすらすらと文字を書き、ほどなくして漢詩や狂文に興味を持ち、8歳からは漢学塾にも通うようになった秀才・直次郎は、幼少期より「言葉に取り憑かれた」子どもだった。十代になった彼は、同門の年かさの友人・立松懐之――狂名「平秩東作(へづつとうさく)」から「狂歌」の手ほどきを受け、強く惹きつけられる。「狂歌」とは、平たく言えば、日常のくだらないことや社会への皮肉を、諧謔と滑稽を旨としながら詠む短歌だ。平賀源内とも親しい平秩の導きにより「狂歌会」にも顔を出すようになった直次郎は、そこでめきめきと頭角を現し、周囲の好事家たちから一目置かれる存在となる。狂歌師・四方赤良の誕生だ。

 本作の読みどころは、今となっては少々わかりづらい「狂歌」の面白さが、直次郎の実体験を通じて活き活きと描写されるところにある。「狂歌というものは、その場の興で詠むものだ。詠み捨てと、聞き捨てだ。後に残らぬと割り切っておればこそ、破格の笑いが生まれる」という平秩の最初の言葉から、やがて直次郎が持つことになる「座が沸けば、それに響き合った狂歌ができる。狂詩や狂文なら一人でも書けるが、狂歌はそばに弾んだ仲間がおらねば詠むことができない」という確信に至るまで。しかも、狂歌の場合は、武家であろうと商人であろうと隔たりなく、互いの教養を素地として、機知に富んだ歌を互いに詠み合い笑い合うことができるのだ。父と同じく、特に出世の見込みもない幕府の下級官吏となった直次郎にとって、これほど楽しいことはなかった。そして直次郎は、狂歌の真髄を、次のように理解するのだった。「狂歌で笑いが弾けるのは、和歌をいたずらに落とすからではない。手の届かぬ月を、美しさに手も足も出ぬ雪を、遠すぎるとため息を吐きながら懸命に愛するからだ。生きる儚さと哀しさを、狂歌が清々しく謳うからだ」。

 『べらぼう』でも描かれていたように、そんな直次郎のもとに、あるとき新進気鋭の版元・蔦屋重三郎が、彼の馴染みでもある狂歌好きの侍――幕府の勘定組頭を務める土山宗次郎(狂名「軽少ならん」)を伴いやってくる。狂詩や狂文で人気を博していた直次郎がなぐさみに書いた黄表紙番付本『菊寿草』に、朋誠堂喜三二が取り上げられたことへの感謝の挨拶だ。以来、直次郎は、蔦重や土山が取り仕切る狂歌会にも顔を出すようになり、喜三二や恋川春町など、狂歌好きの戯作者たちとも親しく交流する。そして、直次郎が狂歌仲間である「朱楽菅江(あけらかんこう)」と共に編纂した狂歌集『万載狂歌集』(『千載和歌集』の諧謔だ)を世に出したことをきっかけに、江戸では空前の狂歌ブームが巻き起こるのだった。

 しかしながら、そんな狂騒の時代は、決して長くは続かなかった。老中・田沼意次の失脚と、松平定信の台頭――江戸の大衆文化にとっては「受難の時」となる「寛政の改革」の始まりだ。それに対抗すべく、定信の政を揶揄する黄表紙を次々と出板する蔦重だが、御公儀からの仕置きを受け、喜三二は筆を折り江戸を去り、蔦重は身上半減、藩主との板挟みとなったもうひとりの著者・春町に至っては、自刃という思わぬ悲劇を招いてしまう。その有様を見て、自身も筆をおくことを決意する直次郎だが、その心中は、果たしていかなるものだったのか。そしてその後、彼が辿った人生とは。本書の後半部分――実はここからが、滋味あふれる本書の何よりの「肝」なのだ。

 直次郎は、心の中で激しく世の中を罵倒する。「腐されたからといって書き手を死に追いやる政に、誰が狂歌など詠んでやるものか。それを詠むというなら、もう狂歌ではない」。さらには、「狂歌は勢いのある弾んだ世に、生きる喜びを乾いた憂さとともに詠んでこそのものだ。足下から湿気が這いのぼってくるような今の世に政など目の敵にしていては、狂歌は狂歌でなくなる」とも。けれども彼は、本当は気づいていた。自身が保身に回ったことを。そう、彼には守るべき家族――とりわけ、どこか他の子たちとは様子が異なる幼き息子・定吉のことが、何よりも気掛かりだったのだ。直次郎の伯父がそうであったように、大田家の人間に時折現れる「風狂の気」が、定吉に宿っているのではないか。直次郎は、言葉に「取り憑かれた」自身の冴えが、狂気と紙一重であることを自覚していた。ときに我を忘れてしゃべり倒す平賀源内の瞳の奥底に自分と似たものを感じ、その最期の姿にひとり戦慄していた彼は、自分自身はもとより、何よりも息子の将来を案じていたのだ。たとえ小禄とはいえ、そんな定吉のためにも「御徒(おかち)」の職を失うわけにはいかないのだ。

 かといって、その後の彼が不幸だったかというと、一概にそうとは言えないところが人生の妙味である。狂歌師としての筆を折ったあと、直次郎は自身のふがいなさに呆然としながらも一念発起し、科挙に倣って幕府が始めた「学問吟味」の試験を受けることを決意する。本来ならば、教師として採用されるぐらいの知識を持っているにもかかわらずだ。かくして40も半ばで試験に及第した彼は、幕府の支払勘定に任用され、古文書の整理などの役職を経て、大阪の銅座に赴任することになる。そして、大阪の地で『雨月物語』で知られる上田秋成と知己を得るようになった頃から、彼は「銅」の異名である「蜀山居士」からとった「蜀山人」の名で、再び狂歌を詠むようになるのだった。ある意味、かつての仲間たちを裏切った自分には、かつてのような「そばに弾んだ仲間がおらねば詠むことができない」狂歌は、とてもじゃないけど詠めないが、今の自分にしか詠めない狂歌があるのではないか。

 『雀ちょっちょ』――「雀どのお宿はどこか知らねども、ちょっちょと御座れ酒(ささ)の相手に」という南畝の狂歌にちなんで題されたと思われるこの小説は、ひとり縁側に佇みながら、ふと見渡した庭先に舞い降りた雀たちに向けて、思わず「ちょっちょ」と声を掛けてしまうような、他愛ない日々の可笑しさと――その背後にある哀愁を丹念に描き出してゆくのだった。かつての狂歌仲間たちが、ひとりまたひとりとこの世を去ってゆく中、彼らが詠んだ狂歌を思い出し、その晩年まで唯一懇意にしていた年下の友人・石川雅望(狂名「宿屋飯盛」)を相手に、ひとしきり感慨にふける直次郎。気立ての良い娘をめとり、子にも恵まれながら、30を過ぎていよいよ「風狂の気」を発してしまった息子・定吉に御役を継がせることもままならず、詩会と酒に気を紛らわせながら、70過ぎまで隠居することなく御役を務めあげた大田南畝の生涯。孫と散歩しながら、その場で思いついた素朴な狂歌を楽し気に詠み聞かせる彼に後悔はない。それはまさしく「生きる儚さと哀しさ」を清々しく謳う、狂歌のような生涯だったと言えるのかもしれない。

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