今村翔吾『イクサガミ』には“山田風太郎スピリッツ”が宿っているーー忍法帖シリーズに匹敵する圧倒的エンタメ性

 Netflixで映像化されるというニュースも記憶に新しい、今村翔吾の『イクサガミ』。完結したとのことで読んでみたのだが、これが憎たらしいほど面白かった。本作こそ、山田風太郎の忍法帖シリーズのスピリッツを受け継いだエンターテイメント小説ではないだろうか。

 『イクサガミ』の舞台は明治11年。物語は、とある新聞をきっかけに噂が知れ渡ったことに始まる。その新聞には「武技に優れるものは同年5月5日、京都の天龍寺に参集せよ。10万円を得る機会を与える」と書かれていた。当時の10万円といえば超がつく大金。真偽の怪しいこの噂を聞きつけ、腕に覚えのあるものたちが動き始める。

 果たして5月5日、めいめいの得物を手に、数多くの武芸者たちが天龍寺に集う。そこに現れたのは「槐」と名乗る男と、その部下たちだった。槐はこれから行なわれるのは「蠱毒」というゲームであることを宣言。さらに300人近い参加者全員に木札を配り、10万円を得るための条件として、「それぞれ京都から東京を目指すこと」「道中のチェックポイントである東海道の宿場を必ず通過すること」「配られた木札が1枚1点となり、チェックポイントごとに通過するのに必要な点数を揃えること」といったルールを説明する。宿場を抜けるためには規定の点数が必要であり、その必要点数は東に移動するにつれ高くなる。つまり蠱毒は、全参加者が札を奪い合って人数を減らしながら東海道を移動するデスゲームなのだ。

 主人公である嵯峨愁二郎は、土佐藩の剣士として幕末を戦った剣客である。とある理由から大金を必要としていた彼は、たった1人で蠱毒に参加していた少女・双葉に出会う。「天龍寺から出るのにまず2点が必要」という条件が課されているため、ゲーム開始直後の天龍寺の中は参加者が一気に半数に減る殺戮の場と化す。やむを得ず無力な少女である双葉を助けた愁二郎は、二人連れで危険極まる東海道の旅に出る。参加者は一癖も二癖もある強豪ばかり。愁二郎と双葉は生きて東京へと辿り着くことができるのか。愁二郎が引きずる過去の因縁とは何か。東京では何が待ち受けているのか。そして「蠱毒」主催者の正体とその目的とは……。

 あらすじだけを書いていても、惚れ惚れするほど面白そうだ。まずバトル要素のあるデスゲームものとして見た時に、明治11年というタイミングの選び方が素晴らしい。明治11年といえば、西南戦争の翌年である。西南戦争では士族による斬り込みで政府軍がたびたび大損害を出したことから分かる通り、この時期はまだ刀に比べて火器が圧倒的に優位という状態になっていない。金属薬莢を使った銃は出現していたものの、連射が可能な銃はほとんど存在しておらず、少人数での戦いなら刀槍はそこまで不利でもない……という最後の時代なのである。

 加えて、明治に入っているので日本は開国している。腕に覚えのある日本人だけではなく、異国から流れ着いた強者たちが物語に登場してもおかしくない。戦国時代以前から江戸期にかけての各種武術にもまだアドバンテージがそれなりにあり、加えて各国からバラエティに富んだ参加者もデスゲームに参加可能。剣術や忍術に近代兵器が入り混じり、そこにフェンシングやカンフーを混ぜ込むこともできるという、絶妙な時代設定が「明治11年」なのである。

 この設定を活かし、『イクサガミ』にはとにかく多様なバックボーンを持ったキャラクターが登場する。関西弁の忍者に正義の剣豪、シリアルキラーにアイヌの弓使い、イギリスの元軍人から怪物めいた老剣士まで、よくもまあこれだけ面白そうなキャラクターを揃えたものだと感心する。そして恐ろしいのは、これらのキャラクターが割とあっけなく死んでいく点である。バックボーンや大金を必要とする動機までしっかりと考えられた強豪たちが、蠱毒の只中でバンバン死んでいく。キャラの立った登場人物を躊躇なく切り捨てていく思い切りの良さは、まるで初期の『北斗の拳』。現代の武論尊先生とは、今村翔吾のことではなかろうか。

 だが『イクサガミ』には、前述のように山田風太郎の忍法帖シリーズを彷彿とさせる特徴も数多い。改めて説明すると、忍法帖シリーズとは1958年から連載された『甲賀忍法帖』に始まる娯楽時代小説シリーズである。タイトルの通り忍者が大量に登場するが、その「忍法」は実際の忍者や通常の時代小説とは異なる超常的なもの。「体を無重力化して空中を高速で飛ぶ」「体が塩に溶ける」といった凄まじい忍術を用いる忍者たちが、時の権力者に振り回されながら死闘・暗闘を繰り広げる物語群である。

 この山田忍法帖には、いくつか大きな特徴がある。まずひとつには、「集団対集団のバトルトーナメント」という形式を確立した点だ。第一作目の『甲賀忍法帖』は三代将軍の選定をめぐって、伊賀と甲賀の忍者集団による忍法争いが勃発するという物語。それぞれの陣営が個性豊かな忍者のチームを組んでおり、チーム同士が駿府城へと移動しながら戦い続け、その過程で両陣営から次々に死傷者が出る。次は一体誰と誰が戦い、どちらが生き残るのか。読者は手に汗握りながら読み進めることになる。のちにジャンプ漫画などに輸入されたこの「集団対集団のバトルトーナメント」というストーリーの形式を生み出したのは、山田風太郎であると言われる(ちなみに山田忍法帖にはバトルトーナメント形式以外にも「ヒーロー1人VS悪の忍者軍団」「チンピラ集団が全員聖女に惚れ、聖女を狙う悪の忍者軍団とチンピラチームで刺し違える」などのストーリーの類型がある)。

 もうひとつの特徴が、徹底して現代の読者のリーダビリティを重視している点だ。わかりやすい点で言えば、山田忍法帖ではほとんど尺貫法が登場しない。第一作である『甲賀忍法帖』の最初のページから、「五メートル」といきなりメートル法での表記となっている。あえぎ声を例えるのにも「トレモロのような」といった表現が使われるが、これは戦国・江戸期を舞台にした小説としては異例のことだろう。作中の時代設定よりも、読みやすさ・伝わりやすさを重視する姿勢は、山田忍法帖に一貫している。

 さらに大きな特徴として、歴史的事実をうまく物語内に混ぜ込んでいる点がある。戦国期の武田信玄の死や小田原征伐、江戸期の徳川将軍家の3代目をめぐる争いや忠臣蔵で知られる赤穂事件といった史実の裏面で、忍者たちは死闘を繰り広げる。歴史的事件の裏面に荒唐無稽な忍者たちの暗闘があったという山田忍法帖のギミックは、多くの作品に共通している。この特徴があるからこそ、山田忍法帖は時代小説としての厚みを獲得しているのだ。

 『イクサガミ』では、これら山田忍法帖的要素が換骨奪胎して取り入れられているように思う。まず超常的な忍法に関してだが、主人公の愁二郎らが使う「京八流」の剣術が該当する。8つの奥義を8人が受け継ぐ流派であり、それぞれの奥義は通常の剣術ではまず対抗できないトリッキーなもの。そしてこの流派をめぐる因縁は愁二郎の過去にも関係しており、蠱毒の渦中でストーリーを引っ張る要因となる。また、愁二郎以外にも人間業とは思えない剣術・体術を身につけた参加者が大量に登場する。彼ら一人一人に散りばめられたアイデアの多様さ・荒唐無稽さは、山田忍法帖の忍者たちに匹敵する。

 もうひとつ、わかりやすい類似点としては、バトルトーナメント形式が導入されている点があげられるだろう。風太郎忍法帖では忍者や剣豪のチームが移動しながら戦い、死んでいく。個性豊かな参加者が東海道を移動しながらデスゲームを戦う『イクサガミ』の物語は、まさにこのバトルトーナメント形式の娯楽時代小説のフォームを現代に甦らせたものだ。さらに時代設定を明治とし、刀槍だけではない武器や武術を登場させるという点には、「その手があったか……」と唸らされた。参加者が次々に脱落していく中、次は一体誰が勝ち、誰が死ぬのかに焦れながらページをめくらされる焦燥感は、まさに山田忍法帖に通じるものだ。

 歴史的事実を作中に入れ込むという構造も、山田忍法帖と共通している。登場人物たちは明治維新から西南戦争という激動の中で振り回され、磨き上げた武芸で一攫千金の機会を得られる蠱毒に全てを賭ける。また、同時期の大事件として知られる大久保利通暗殺に関しても、『イクサガミ』の作中に「真相」が書かれている点にも注目したい。他にも明治時代ならではのガジェットがいくつも作中に織り交ぜられており、決して単に荒唐無稽なだけの作品ではない。

 そして重要なのが、今村翔吾もまたリーダビリティ重視の人であるという点だ。『イクサガミ』もまた、尺貫法がちっとも登場しない小説なのである。これに関しては「時代が明治である」というエクスキューズが用意されている点も心憎い。「明治11年なので登場人物がメートル法で会話していても一応おかしくない」「明治11年なので登場人物が時刻を『〇〇時』と表現していてもひとまず不自然ではない」という点については軽く説明しつつ、あとは「〇〇時」「〇〇メートル」でそのまま押し切ってしまうこの豪胆さ。さらには空中にいる敵を迎え撃つ技を「対空」と表現するなど、格ゲー由来とおぼしき現代的な言い回しまで混ぜ込まれている。現代の読者に伝わらないのならば、時代小説らしいディテールは潔くスポイルするこの姿勢も、山田風太郎に通じるものだろう。

 というわけで、『イクサガミ』には山田忍法帖の思想や形式に極めて近いものが息づいている。山田忍法帖がその後日本のサブカルチャーにおける「バトルもの」に多大な影響を及ぼしたことを考えれば、『イクサガミ』は戦後日本型エンターテイメント作品の直系の子孫と書くこともできるだろう。

 そんな『イクサガミ』が、海外資本の動画配信サイトで映像化される事態には、どうにも因果を感じざるを得ない。戦後日本型エンターテイメントの嫡子たる『イクサガミ』が世界へ打って出た結果どうなるのか、配信開始を楽しみに待ちたい。

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